小説 短編

報われない恋

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「すぐ来てくれ」
先生から電話がかかってきた。
「わかりました。今すぐ行きます」

幸子は、食べかけの食器をテーブルに残したまま、パジャマにコートを羽織って外に飛び出した。先生が借りている仕事部屋までは、自転車で十分の距離。もう十一月の下旬ともなれば、夜はしんしんと冷え込む。手袋をしようと思っていたのに、いつも忘れてしまう。幸子にとっては、手袋よりも先生が大事なのだ。

この辺りは、寂れたバーが立ち並ぶ飲み屋街だ。年季の入った看板の「さちこ」は、母が経営するバーだ。時々手伝っているが、今日は休みの日なので素通りする。先生が「さちこ」に初めて来たのは半年も前の事だ。

「えっ? あの真行寺達雄先生ですか?」
「知ってるの、僕の事?」
「先生の大ファンですよ、私。すっごく嬉しい!」

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先生は、幸子が中学時代から愛読している小説の作者だった。細やかな女心を描写する事から、若くて華奢な感じを想像していた。でも実際は、四十代後半の中年で、高校生の娘がいる立派な父親だった。

先生の自宅は、ここから電車で四十分はかかる。執筆に集中するため、普段は仕事部屋として借りたアパートに居て、自宅に帰るのは洗濯物が溜まった時ぐらいだった。幸子は時々、食事を作りに行くという名目でアパートに出入りしていた。

吐く息が白い。頬に当たる風が冷たい。ハンドルを握る手が痛い。それでも幸子の心が躍っていたのは、久々に先生が夜に呼んでくれたからだった。

幸子が初めて先生と結ばれたのは、出会ってから三日目の夜だった。初めて「さちこ」に来た翌日の昼から、先生の食事を作りに出掛けた。バツイチ、出戻り、二十九歳の娘の事を案じながらも、美千代は「頑張んな」と応援していた。自らも波瀾万丈の人生を歩み、実らぬ恋に溺れたためか、これも遺伝と諦めていた。

カーブミラーの角を曲がると、先生のアパートに着いた。時刻は夜の十一時を越えている。外から見上げると、二階の先生の部屋だけが明かりを灯していた。昼間ならカンカンカンと勢いよく上る階段も、周りを気遣って静かに歩いた。

ドアの前に立って息を整える。一秒でも早く会いたくて、一生懸命にペダルをこいで来たのと、冷たい空気が肺に入って苦しかったので、右手を胸に当てて心臓を落ち着かせた。小刻みに拍動する胸を強く押して「鎮まれ、早く鎮まれ」と心で叫んだ。

ようやく落ち着いてきた事を確認し、息を大きく吐いてからインターホンを鳴らす。「ちょっと待って」と声がして、ドアを開錠した後に先生の姿が見えた。すぐに「遅くなってすいません」と頭を下げた。

先生は「全然遅くないよ。いつもより早いくらいだ」と言って笑うと、幸子の手をとって部屋に引き入れた。「冷たいな」と一言呟き、幸子の両手を自分の両頬に押し当てた。

「先生……」

幸子の大きな瞳から零れた涙が頬を伝った。それを確認した先生は、涙で濡れた頬に優しく唇を当てた。そのまま幸子を優しく抱き寄せ「泣くなよ」と耳元で囁いた。暫く玄関先で抱きしめた後、「おいで」と言って部屋の中に誘導した。

幸子をベッドに座らせると、「飲むか?」と言って台所に立った。故郷の焼酎をお湯で割り、「温まるぞ」と幸子に渡した。不器用で無口だが、この何気ない優しさが幸子には堪らないのだ。

両手で湯飲みを持ち、冷えた唇を当てる。そして少しずつ、コクコクと喉に流し込み、半分飲んだところで先生に渡した。一杯の焼酎を二人で分け合って飲むのが、幸子と先生の決まり事になっていた。

「すまない、いつも遅い時間に呼び出して」と、幸子の肩を抱き寄せながら言った。「どんなに遅くても来ます。二時でも三時でも構いません」と言って、先生の胸に顔を埋める。先生は「そうか」とだけ言って、二人はベッドに倒れ込んだ。

先生の夫婦関係は、今やかなり冷え込んでいる。もう何年も、妻の体に触れた事はなかった。ただ、高校生の娘のためだけに家族でいるようなものだった。しかしだからと言って、不倫関係が許されるものではない事は、幸子は充分に承知していた。

先生は「いつか妻と別れて、君と結婚する」と言ってくれてはいる。しかし、幸子はそんなに期待してはいない。男は嘘をつく動物である事を、今まで何度も経験してきたからだ。

たとえ一緒になれなくても、今日だけ一緒に居られればそれでいい。たとえ明日が来なくたっていいのだ。

「先生、キスして……」

たとえ今日死んでもいい、幸子はそう思っていた。

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