第12話「美しき女豹」

もうすぐ26歳になろうかという夏の日、僕はどうしても終わらない仕事を抱え、一人会社に残っていた。時刻は9時を過ぎ、シーンとした室内にカチャカチャとキーボードを叩く音だけが響いていた。
同僚たちは今頃、冷えたビールでも飲んでいる事だろう。早く帰ってビールが飲みたい。僕はスピードアップして最後の仕上げに取り掛かった。

やっと残業を終え、机を整理して帰ろうかと思ったところへ、ドアを開けて室内に入ってくる人がいた。

「石川君、遅くまでご苦労様ね」

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入ってきたのは課長の河合京子だ。手には缶ビールを2つ持っている。

「仕事終わったの? 良かったらこれ飲んで。私のお・ご・り」
「ありがとうございます。いただきます」

僕は持っていたカバンを机の上に置いて、カラカラの喉に冷えたビールを流し込んだ。

「今日は月が綺麗ね」

そう言って、河合課長は上がったままのブラインドを閉めて回った。僕も慌てて他のブラインドを閉める。

「ねえ、石川君は何歳になるんだっけ?」
「は、僕ですか? もうすぐ26歳になります」

「あら、まだ若いのね。私なんてもうすっかりおばさんよ」
「そんな事ないです。課長はとても魅力的な方です」

僕の声は上ずっていた。女性と話すのはあまり得意ではないうえに、河合課長はバリバリのキャリアウーマンで、いつも厳しく注意されている。まだ40歳にはなっていないだろうに、更年期の症状なのかヒステリックになる場面をよく見かける。彼女の前ではいつも緊張しっぱなしだった。

「あら、あなた見かけによらず口が上手いのね。かわいいわ」

どうやら河合課長はすでに酔っ払っているらしい。頬が紅潮して赤い唇が艶っぽく見える。
赤いスカートに赤い靴、この人はよっぽど赤が好きなのか?

「暑いわ。今日はとても暑いわね」

そう言いながら、白いブラウスのボタンを外すと、柔らかそうな乳房を隠す白いブラジャーが少し見えてきた。僕は思わず目を逸らした。

「ねえ、私って綺麗だと思う?」
「えっ?」

突然の問いかけに、思わず声が上ずってしまった。河合課長は相当酔っ払っているらしい。この人のこんな姿を見ることになるなんて、今まで想像も出来なかった。男を男と思わないような男っぽい女性だと思っていたからだ。

「ねえ、どう? 綺麗だと思う?」
「は、はい。と、と、とても綺麗な方だと思います」

直立不動で上を向いたまま、僕は彼女の望む答えを言った。
確かに、河合課長は年齢を感じさせないし、メガネをかけてはいるが、その奥には長いまつ毛で二重のぱっちりと開いた瞳がある。背も高くてスレンダーなので、ボディコンを着てディスコで踊っていてもそんなにおかしくない気がする。

社内では、専務の愛人を長くしているという噂がある。30代で課長というのも、専務の後ろ盾のお陰かも知れない。
それともう一つ、男なしではいられない体だという噂もある。若い男性社員は気をつけろと先輩から言われた事がある。以前、河合課長に惚れられてしまったために、会社を辞めていった人がいたという話も聞いた。

まさか僕みたいな男がタイプのはずはないと思っていたのだが、若ければ誰でもいいって事なのか?

「ねえ、石川君は彼女いるの?」
「は、はい。います」

「そう、石川君ってかわいいものね。女の子が放っておかないでしょ。私も食べちゃいたいくらいだわ」
「えっ?」

河合課長が少しずつ、僕との間を詰めてくる。いつか見たサバンナの光景が蘇る。上空から撮影しているカメラでヒョウとシカの様子を映している映像が脳内で流れる。煌々と照らす蛍光灯の下、シーンと静まり返った6階のフロアーのコンクリートの柱の陰で、モニターを確認している監督の姿が浮かんでくる。
これは映画の撮影なのだろうか? 主人公は僕なのか? 河合課長はどんな役柄になるのか? これはR18なのか、それとも殺人事件に発展するサスペンスミステリー? どちらのストーリーも嫌だ。監督、脚本を見せてください。

「ねえ、キスした事ある?」
「えっ?」

「キスぐらいあるでしょ? あなたの彼女はキスはお上手かしら?」
「い、いや、あの、えっと…」

「私と比べてみる?」
「えっ? い、いや、いや…」

河合課長はもうすでに、僕の机の上に腰かけていた。僕はここでもシカだった。ヒョウの威圧感の前になすすべもない。
長い足を組むと、短いスカートの中から白い太ももが露わになった。それを見た僕の下半身は、20代男子の正常な反応を示している。

「あらあら、体は正直よね」

大人の女性の河合課長は僕の体の反応を見逃しはしなかった。獲物の様子をじっくりと観察する捕食者の本能だろうか。

緊張で固まって体に張り付いた僕の右手を両手で優しく包み込んでくる。冷たいひんやりとした感触が伝わる。その手の冷たさが、余計に恐怖感を際立たせていた。そして僕の右手をゆっくりと自分の方へ引き寄せていく。何故だか拒む事ができない。

「ねえ、どう? 触ってみる? 私のここ」

僕の右手を自分の胸の前まで持ってきた河合課長は、僕に考える猶予を与えた。有無も言わさず触らせる事も出来ただろうに、自分の意思で判断させる事で征服感に浸りたいのだ。

男なら、「据え膳食わぬは男の恥」である。目の前に美しい女性がいて、その人が触っていいよと言っている。内面は男以上に男性的な人なのだが、メガネを外した外見は、街ですれ違えば男なら誰でも振り返るような美女だ。
若い男なら誰でも拒む理由はないかも知れない。だって相手が誘っているわけで。僕よりも高給取りなわけだから、金銭を要求される事もない。ただ体を欲しているだけなのだ。

専務はもう高齢だから、なかなか夜の相手が難しいのかも知れない。火照った体を慰めてくれるなら、こんな僕でも構わないのだろう。
確かに昔から、男なしでは生きられない女性がいると聞いている。しかし、まさかこんな身近にそういう人がいるとは思いもしなかった。

「ねえ、上司の命令が聞けないのかしら?どうなるかわかってる?」

美しき女豹の、低く冷たい声が耳元に響いた。

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