第五話「草原のシカ」

少しずつ、張りつめていた部屋の空気が動いている気がする。窓は閉まっているから外からの風ではないはずなのだが、少しだけ押された空気の層が僕の頬をかすめた感じだった。

さっきまで真正面にいたはずの百合の体が、少しだけ位置がずれていることに気がついた。そしてその位置を連続的に距離を縮めているのは、意図的に彼女の意思によるものなのだと。髪を垂らして下を俯いたままにじりにじりと距離を詰めるその光景は、解釈によってはホラー映画のワンシーンにも見える。そんなことを考えるのは彼女に対してあまりにも失礼な話なのだが、健全な大人の男子でありながらこういうシチュエーションに慣れていない僕は、どんなに頭をフル回転させてもこれからの展開の定石を見つけることができそうになかった。

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相変わらず黙ったままの百合。その圧倒的な威圧感は、日本アカデミー賞主演女優賞受賞者でも出せないくらいにリアルなものだった。まるで肉食動物が獲物を狙うかのように、息を殺して距離を詰めてくる。これは映画の一場面として採用したいぐらいの局面だ。僕の頭の中では、アフリカの草原で距離を持って対峙していたライオンとシカの映像が、引いたカメラで撮影されている姿が映し出されていた。

僕の知っている百合とは思えなかった。もしかしたら演者が入れ替わっているのか? どこかでカメラが回っていて、監督が指示を出しているのか? もしかしたらこれは生放送で、全国のお茶の間に中継されているのか?

妄想癖のある僕は、今の状況を真剣に考える勇気がなかった。だって普通は、フラれた女の子が酔っ払いながら、クドクドとフラれた状況を事細かに吐き出すのがよくあるパターンではないか。彼に対する恨み節を「そうだよね」などと軽い相槌を打って、気が済んだらお開きになるのが常のような気がする。ドラマでもよくあるシーンだ。ところが今日は、僕の想像を遥かに超えた展開になっている。「こんな台本なんですか、監督」と言いたくなる。

頭の中でぐるぐると思考を巡らせているうちに、物語は佳境になってきた。いつの間にか、柔らかいものが僕の肌に接触しているのだ。それは、白いTシャツから露出されている彼女の腕だった。僕は思わず目を閉じた。

目から入る情報を遮断すると、感覚が敏感になる。百合の体を勢いよく流れる血液がイメージとして飛び込んできた。また、触れた肌から彼女の心臓の拍動がトクントクンと伝わってくるようだ。

そして僕の頭の中に、再びサバンナの光景が広がってきた。シカの首に牙を立てているライオンが見えた。シカは僕でライオンは百合だ。普通は「男は皆オオカミ」が定番だが、僕らの立場は逆転していた。しかしこれはあくまでも僕の妄想なのであって、百合がライオンに相当するのかどうかはわからない。もしかしたら、2人ともシカかも知れないし。というのは僕の希望的観測なのであるが。

僕の右腕の肘の少し上だけが温かい。いや、温かいというよりもジリジリと熱い気がする。火傷かと思うくらいに痛い。本当は接触面を離したいのだけれど、百合がこうしていたいのならこのままでいよう。我慢強さだけが僕の取柄だ。

しばらくすると熱さが気にならなくなってきた。1ミリも動かない僕たちは、まるで以前から繋がったまま生まれてきたのではないかと思うほど違和感を感じなくなってきた。こんな風に思っているのは僕だけで、百合はまったく何も感じていないかも知れない。でも、少なくとも今の状態を嫌だと思っていないことはわかる。だって彼女の方が望んでしたことだし、あくまで僕は受け身の立場なのだから。

「あのね、好きな人が出来たんだってさ」
「えっ?」

あまりに唐突に始まった会話に、一瞬頭がついていかなかった。心の準備が出来ていなかったものだから、思わず声が裏返ってしまった。何とも恥ずかしい。緊張感が足りなかった。牽制球でタッチアウトを食らったかのようだ。でもその反面、重苦しい空気が切り裂かれたことが嬉しかった。

僕の解釈によれば、静かな時間が続いたことで、百合の心の中で荒れまくっていた感情の波が凪いで、冷静さを取り戻したのだろう。でも、肌と肌がくっついたままであることは変わらない。この状態が、彼女が平静でいるための条件なのかも知れない。

「高瀬君は優しいね。一生懸命謝ってくれたよ。本当にごめんなさいって。何度も何度も頭を下げてさ。私つらくて、涙を止められなかったんだけど、ずっとずっと謝ってくれたよ。優しいよ、あの人は。本当にいい人だよ。本当に……」

百合の言葉が途切れた。右手で目を抑えている。僕に伝えたかった事を言えた安心感が、抑えていた感情を呼び戻したのだろう。僕は用意しておいた言葉を伝えようと思った。

「百合、こういう時は我慢しないで泣いていいんだよ。思いっきり泣きなよ。僕が一緒に居てあげるからさ」

その言葉が合図だったかのように、彼女は声をあげて泣いた。嗚咽しながら泣いた。そして僕も一緒に泣いた。僕たちはやっぱり2匹のシカだった。

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