零美は和彦と電車に乗っていた。今日は久しぶりに和彦の母に会うために、実家を訪れることになっていたのだ。
電車の中はほどほどの混み具合で、零美と和彦は立って吊革につかまっていた。
和彦はさっきから、自分の前に座っている若い女性が気になって仕方なかった。白い大きなつばの帽子を被り、サングラスをかけて下を向いている。
二十四、五歳ぐらいのその女性は、線の細いスラっとした美女で、隣りに妻の零美がいるのに、和彦は彼女をチラチラと見ていた。
それは、彼女が美人だからという事もあるが、それの他に、なにやらぼそぼそと独り言を呟いているからだった。
その声は小さく聞き取れないが、確かにぼそぼそと聞こえてくるので、和彦は気になって仕方なかったのだ。
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そして、もうすぐ目的の駅に着こうかというところで、その声は突然に大きくなった。
「いつまで憑いているんだ、この野郎おおおおおお! いい加減にしろおおお!」
静かな車内に不似合いな余りにも大きな声に、周りの人たちが一斉に声の主に注目した。しかし、彼女は何事もなかったかのように下を向いている。
そして駅に着き、和彦と零美は人波に流されるようにホームへと押し流された。
人波のせいで零美と離れてしまった和彦は、零美の元に駆け寄った。
「さっきの声、聞いた?」
開口一番、和彦は零美に一番聞きたかった事を聞いた。
「『いつまで憑いているんだ、この野郎お』でしょ?」
「そうそう。びっくりしたね、あれには」
歩きながら両手を広げるジェスチャーをする和彦。
「あれは結局、霊に憑かれているってことなの?」
「そうね…。可哀想だけどね」
零美はさして驚いた表情も見せず、淡々と答えていた。
「君には、その…、その霊は視えたのかい?」
和彦は恐る恐る聞いた。零美が普段から、あまり霊を視ないようにしている事を知っているからだ。
「そうね…。視たわ…」
零美の様子から、思い出したくなさそうな感触を受け取った和彦は、聞かなきゃ良かったと後悔していた。
霊感のない和彦にとっては、「視える」というのは羨ましい事なのである。それをネタに面白そうな小説だって書く自信はある。
しかし、「視える」事によって、零美が子どもの頃から苦しんできた事も知っている。普段の彼女は、出来るだけ視ないようにしているという事も……。
ある人が言うには、人は誰でも訓練次第で、視えたり聞こえたり出来るようになるのだと言う。大きな事故で生死の境を彷徨って以来、視えるようになったという人の話もある。
和彦は、いつか自分も視えるようになりたいと願っているのだが、その一方で、怖いという思いもあるのだった。
「あの人に憑いていた霊はね……」
考えながら歩いていた和彦に、零美が話し掛けてきた。
「顔だけを、彼女の右肩に乗せていたわ」
「えっ?」
「そして彼女の右耳に向かって、何かを囁いていたの…。何を囁いていたのかはわからなかったけど……」
「そうか…、それは鬱陶しいなあ」
「それが毎日毎日繰り返されるわけだから、彼女も辛いわよね」
「そうかあ、毎日かあ…。耳鳴りがするって言う人も大変だって聞いたことあるから、耳元で意味のある言葉を囁かれたらもう、本当に辛いだろうね。いい加減にしろおって言いたくなるのもわかるよ」
和彦の言葉に、零美は頷いていた。
「あの霊は結構、恐ろしい形相をしていたから、きっと恨みつらみの言葉だったはずよ。だけどあれは、彼女にとってはいい迷惑よね。だって彼女には、何の罪もないんだもの。彼女の何代か前の先祖に苦しめられて亡くなった人が、先祖ではなく、今生きている彼女を苦しめているんだから」
「それは、彼女にとっては理不尽な話だなあ。恨むんだったらさ、いじめた本人を恨めよって話だよね」
「うーん、その人がこの世に生きていれば出来るんだろうけど、もうこの世にいなかったらどうしようもないもんね。だからせめて、その人の子孫を苦しめるしかないんじゃないかな。もし子孫がいなかったら、ちょっとでも関係のある人とか…」
零美は話の途中で、急に立ち止まって駅構内の壁際をじっと見ていた。
「どうしたの?」
「ほら、あそこ…。じっと座っている人がいる」
「えっ? どこ?」
零美が指差す方向を見ても、和彦には何も見えなかった。
「あの人からも、強い恨みの念が伝わってくるわね」
「恨みって…。誰かに殺されたのかな?」
「それはちょっと違うかも」
「違うって言うと?」
「たぶん……、あの人は自殺じゃないかな。誰か特定の人って言うよりも、この社会全体に対する恨みって感じがするわね」
「社会全体か……」
「自己主張の強い人は、通り魔事件とか起こして、幸せに暮らしている人たちに思い知らせてやろうとするけど、自己主張出来ない人は、自分で自分が嫌になって傷つけたくなるんじゃないかしら。
そういう人って、同じような思いを持っている人を探しているのよ。自分の苦しみをわかってくれる人をね。そしてそういう人の体に憑いて、恨みつらみ、妬み嫉み、怒りや悲しみの思いを増長させるの。
だから、怒りや悲しみの思いを、そのまま長く持ち続けるのは危険な事なのよ。三秒以内、三分以内、三十分以内とか、短い時間で気持ちを切り替える事が大事よね」
零美はそう言って、足早にその場を立ち去ろうとしていた。さっきの霊の事情に共感したのか、和彦には彼女の瞳が潤んでいるように見えた。
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