普通のOLらしきその女性は、いかにも疲れ切った顔で店にやってきた。まだ二十代のように見えるのだが、その顔に生気は見られなかった。その立ち振る舞いから、彼女の悩みは相当深いものに感じられた。
「あのう、お電話くださった森永彩花さんですよね?」
零美の問いかけに小さく「はい」と答え、彼女は軽くお辞儀をした。
「雨に濡れませんでしたか? さあ、どうぞこちらへ」
外はかなり強い雨が降っていて、彼女も少し濡れていたのが気になった。しかしその気遣いにも反応せず、黙ってとぼとぼと席についた。よほど心的ダメージが強いのだろうと零美は思った。
「こんにちは森永さん。私は加賀美零美と申します。お客様のお話された事は一切他言いたしません。秘密厳守ですから何でもご相談なさってください。今日はどんな悩みで来られたんですか?」
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零美は彼女の不安を和らげようと、できるだけ笑顔で話した。いつもシリアスな悩み事を聞いているため、自然と笑顔がなくなるのを自覚しているからだ。
彩花はふーっと息を吐いて、しばらく考え込んだ後、少しずつ話し始めた。
「実は私、最近新しい職場に変わったのですが、そこにかなりきつめの上司がおりまして、その人とどうやって付き合ったらいいのかがわからなくて困っているのです」
「その上司は女性ですか?」
「はい、女性です」
「年齢は?」
「四十代後半だと思います」
「その方の生年月日はわかります?」
「すいません、ちょっとわからないんです」
「その方の写真とかあったりします?」
「あっ、画像はあります」
そう言って、彼女はスマホを取り出して画像を見せた。居酒屋で撮ったであろうその画像には、数人の女性が写っていた。
「どの方ですか?」
「左から二番目のメガネの女性です」
ショートの髪で、いかにもはっきりと物を言いそうな感じに見えた。零美はその画像をじーっと見つめ、いろいろな情報を感じとっていた。
「そうですねえ、この方は、白黒はっきりさせないと気が済まないタイプですねえ」
「確かに、いつも怒っている感じです」
「かなりの自信家で、自分が絶対正しいと思っているようです」
「そうなんです。自分の非を認めませんし、絶対に謝りません。みんなそれで困っているんです」
頭を傾げ目を瞑ってため息をつく彼女。上司の言動がどうにも理解できないといった様子だった。
「この方は独身ですか?」
「はい、結婚した事はありません」
「とても能力が高くて仕事熱心だと思うんです。男に負けるかっていう意識も強いですね。なかなかこの人に敵う男性もいないかもですねえ」
「本当にそうです。同僚の男性にだってはっきりダメ出ししますし、自分より年上の男性だって容赦しません。まあ、それだけ仕事が出来る人だから、上の方も何も言えないんですけど」
零美は「そうですかあ…」と言いながら、彼女の職場の光景をイメージしていた。
「森永さんはかなり参っているように見えますが、精神的に大丈夫ですか?」
「はい……」と言った後の言葉が続かない。
「心がズタズタでしょう?」
「もう、ぼろ雑巾状態です」
「森永さんは感受性が強いから、人の言動に敏感ですもんね。特に言葉に対するこだわりが強いんじゃないですか?」
「はい、そうなんです。汚い言葉が嫌いって言うかですね。多分、父親が口が悪かったっていうのがあって、自分はそういう、人を傷つける言葉は使いたくないっていうのがあるんです。だから、言葉が悪い人はどうも苦手なんですよね」
彼女の表情から、その上司が嫌悪の対象である事が伝わってきた。
「そんな職場で毎日仕事して、お体は大丈夫ですか?」
「心が元気ないと体もつらいです。重たいって言うかですね」
「一番の良い方法は、職場を変える事だと思うんですけど、そう簡単じゃありませんよね」
「はい、次に良い職場に巡り合える保障はありませんし、生活もあるので、当面は我慢しなきゃなと思っているんです」
「この方は、自分の言う事を聞いてくれる人には良くしてあげたいタイプなんですよ。はいはいと言う事を聞いて、そうですよねえって同調してくれる人、そういう人には優しいはずなんですよね」
「確かに、そうやってうまく接している先輩もいます。すごいなあって見てるんですけど」
「森永さんは、そういうのってなかなか出来ませんか?」
「そうですねえ。要領が悪いんでしょうね」
「表面だけでもいいんですけどね。心の中では上司の言う事は違うと思っていても、表面上でそうですよねって言ってあげれば、この方の態度が変わると思いますよ。うまく聞き流して、はあー、なるほどー、そうですよねーって感じで」
「逆に怒られないですかね?」
「この方は、どこまでも男っぽい人なんです。物事の裏を考えたりしない人って言うか、見たら見たまんま、聞いたら聞いたまんまで受け取る人なので、その辺は女優になった気分で演技してみてはいかがですか?」
「女優ですか?」
「そうです、女優です。女は誰でも女優なんです。職場の後ろから、監督がカメラを回している事を想像して演技してみるのです。そうすれば、違った意味で毎日が面白いかも知れませんよ」
そう言って、にこっと笑った零美。その笑顔を見ながら、この人も演技しているのかしらと彼女は思っていた。そして、楽しそうに話す零美の姿に、明日からの自分の姿を重ねていた。
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