零美はソファーに深く腰を下ろした。そして美登里に向かって言った。
「【抱っこ法】というのは、お母さんの膝の上に子どもを乗せます。私が母親役をやりますので、美登里さんは私の膝の上に乗ってください」
「えっ? 私がですか?」
「はい。私をお母さんだと思って」
「わかりました」
少し戸惑いながら、美登里は言われる通りにした。
「では一緒に、お互いを抱きしめ合いましょう」
「はい」
二人はお互いの体を抱きしめ合った。
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「こうなった状態で、お母さんが子どもに話しかけます。“〇〇ちゃん、お母さんに今まで言えなかった事があるでしょ? お母さんにしてもらいたかった事があるでしょ? お母さんに言えなかった事、教えてくれる?”って聞くんです。
そうすると子どもがいろいろと思い出しながら言うんですね。もしかしたら時間がかかるかも知れませんが、根気強く聞いてあげるんです。
“お母さん、私はお母さんにもっと話を聞いてほしかった。もっと愛してほしかった。だけどお母さんが大変そうだったから我慢してたんだよ”
子どもながらにお母さんの事を気遣っていたんですね。そうしたら、まずは“ごめんなさい”と謝ります。
“ごめんなさいね、○○ちゃん。○○ちゃんの話を聞いてあげられなくてごめんなさい。〇〇ちゃんを愛してあげられなくて、本当にごめんなさいね。お母さんを許してね”
すると子どもが、“許す”とか“許せない”とか、いろんな反応があると思います。とりあえず、本音を吐き出させる事が大切なんです。
そして今度は、お母さんがどうして出来なかったかを説明します。
“あのね、あの時お母さんは忙しくてね、あなたの話を聞いてあげる余裕がなかったの。本当にごめんなさいね”
こうやって、お互いの言い分を聞きあう事で、子どもは愛されている事を実感できるし、お母さんも子どもを愛する事が出来る自分なんだと、自信を取り戻す事ができるのです」
美登里は黙って聞いていた。真夏に抱き合うというのは異様な光景ではあるが、懐かしい母の温もりを感じられて、美登里はとても気持ちが良かった。
「美登里さん。お母さんはお元気でいらっしゃるんですか?」
「……」
しばらく沈黙が続いた後、美登里は小さな声で答えた。
「母は…、母は…、実は昨年に亡くなったんです」
「ああ……、そうだったんですね…」
零美は合点がいったかのように、うんうんと頷いた。
「実はね、“ごめんね”って声が聞こえたんです」
「えっ?」
「“ごめんね美登里ちゃん”って声が聞こえて……」
零美が話し終える前に、美登里は体を震わせて号泣した。さっきの小さな声ではなく、力いっぱいの大きな声を上げて泣いた。
零美は黙って、力いっぱい美登里を抱きしめた。
奥にいる和彦が「どうした?」と言わんばかりに驚いた顔をしている。
真夏の午後、三十歳の零美と四十二歳の美登里が抱き合っているのも異様な光景だが、泣き続ける美登里と共に零美も一緒に泣き始めたからだ。
驚いたのは確かだが、その光景が美しく感じられ、思わず和彦も自分が泣いている事に気づいて涙を拭った。
しばらくの間、その心地良い時間は続いていた。
和彦には、本当の母娘が抱き合って泣いているように見えた。二人の間には全くの距離がなく、以前から一つであったのではと思えるような不思議さがあった。
そして、思う存分泣いた美登里は、零美の体にくっつきながら話し始めた。
「まるで先生が本当の母のように感じられました。幼い頃にギュって抱きしめられた感覚が蘇ってきました。暖かくて気持ちが良くて……。思わず泣いてしまいました。アハハハ」
「私も泣いちゃいました。実はね、私は小さい頃から霊感が強くって、時々、声が聞こえる時があるんです。それで、これは美登里さんのお母さんの声なんだなと思って…」
「はい、私もそう思います。小さい頃は美登里ちゃんって呼ばれていました」
「あのね、美登里さん。私の中にお母さんの気持ちが入ってきたんです。あなたに対してとても謝りたいっていう気持ちが……。きっとお母さんも心残りだったんでしょうね」
「母は教育者として、子どもをしっかり育てなきゃって思ってたんだと思います。それで結構厳しくなっていったというか…。でも今、先生と抱き合っているうちに、母は私の事を愛してくれてたんだなあって伝わってきました。家に帰ったら娘とやってみたいと思います。ありがとうございました。」
美登里は体を起こして立ち上がった。そして鑑定料を支払って帰っていった。
零美には、美登里の背中に優しい女性の顔が浮かんでいるように見えた。とても穏やかな顔で、長い間の苦しみが取れたような感じがした。美登里の背中を見送りながら、零美は深々と頭を下げた。
「良かったね、あの人。きっと娘さんともうまくいくよね」
奥から和彦の声がした。
「そうね。きっとうまくいくよね。きっと……」
零美は部屋に戻って、飾ってあった写真立てを手に取った。
そこには、和彦と零美の三人で写した、わずか五歳でこの世を去った娘の和美の笑顔があった。
「和美ちゃん、ごめんね……」
零美は写真立てを抱えて泣いた。
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