「先生、男女が付き合うのに告白って必要なんですかね?」
そう言った生島早智子は、今にも零れ落ちそうな大粒の涙を浮かべていた。彼氏の言葉がどうしても納得出来ないから、零美に話を聞いてほしいと言うのだ。
「告白……ですか?」
彼女の言葉を聞き、すぐには理解出来なかった。三十路の零美にとっては、付き合い始めるのに告白をするのは当然だろうという認識があったからだ。
「とりあえず、ホットココアを飲みましょうよ」と声をかけた。ホットココアは冷えた心を温めてくれる薬だと零美は信じている。
「すいません、私、甘いのが苦手で……。ブラックコーヒーでお願いします」
零美は引きつった顔で笑った。この場面で、ホットココアを飲む事に同調しないとは……。彼女はあの特殊な星を持っているに違いない、と心の中で思っていた。
しかし、コーヒーが好きな人に悪い人はいない、というのが持論なわけで、気持ちを切り替えてコーヒーをカップに注いだ。いつもなら、チョコレートを二つ添えたいところなのだが……。
「だったらチョコもだめですよね、お煎餅でも食べます?」
「いえ、煎餅よりもチョコの方がいいです」
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ますます、あの星があるに違いない、という確信が高まった。ブラックコーヒーにチョコレートを二つ添えて彼女の前に置いた。「いただきます」と言って口をつける頃には、もう涙はどこかにいってしまったようだ。
「それで、彼と何があったんでしたっけ?」
コーヒーを一口飲み、チョコレートの包みを開けようとしていた彼女は、零美の質問に慌ててチョコレートを元に戻した。
「あっ、はい……。実はですね、私たち付き合って長いんですけど、部屋の更新のタイミングに合わせて、結婚に向けた同棲の相談をしたんです。
そしたらですね、何て言われたと思います?」
「……」
「どうして? 俺たち付き合ってないじゃん。告白したっけ、俺?……ですよ」
「……」
「もう、その瞬間、開いた口が塞がりませんでした。確かに告白はされていなかったんですけど、何度もデートして、家まで行ってるわけですから、付き合っているもんだと思っていたわけですよ。
誕生日プレゼントだってもらったし、好きだとか可愛いとか言ってくれてたわけで……。もちろん、やる事だってやっていましたしね」
「……」
「こっちはもう、大人の恋愛だって思っていたわけじゃないですか。告白していないから付き合ってないだなんて、ひどいと思いませんか?」
「……」
興奮した彼女を落ち着かせようと、黙ってチョコレートを指差した。糖分を補給させる事で、抗ストレスホルモンであるセロトニンの分泌を促すためだ。彼女は黙って頭を下げ、チョコレートの包みをほどいて口の中に入れた。
「そしたらとりあえず、あなたと彼の生年月日を教えてもらっていいですか?」
彼女は「はい」と言ってペンを持ち、紙に二人の生年月日を書いて渡した。それを基に二人の命式を出してから、彼女の前に置いた。
思った通り、彼女にはあの星があった。いわゆる「個性の星」が強められていたのだ。命式で相手を知る事は重要な事だ。相手を知る事で、心理的に優位に立つ事が出来るし、その星を持っているが故の生きづらさを理解してあげられるからだ。
人は誰でも、本当の自分を理解してもらえないというもどかしさを抱えている。それ故に、人は誰でも孤独なのである。
占い師は、その人の本質を少しでも理解してあげる事で、この人は私の味方なんだと理解してもらおうとしている。一人でも味方がいるとわかれば、人は生きていけるのである。
ただ、彼女は、「人と違って個性的」と言われる事を好んでいるふしがある。言い換えれば「孤独に強い」とも言える。
基本的にあまり人の事を信用しない彼女なのであるが、それ故に、それほどまでに自分の危機管理能力に自信があったにも関わらず、予想外の言葉だった「俺たち付き合ってないじゃん」を彼の口から聞いたという事が許せなかったのである。
だから、彼女を納得させるためには、この男の特殊性を知らしめなければならない。自分の行動に責任を持つのが当たり前だと考える彼女なのだが、そうは考えない人もいるのだという事を理解させなければならないのだ。
「この人はですね、責任感がないんです。まあ、苦労が足りないんでしょうね。誰かが何とかしてくれる、という甘えが強いんですね。甘え上手と言うか、そういうところがモテるのかも知れませんが……」
「……」
「内面で言えば、あなたの方が男性的な考え方であり、彼の方が女性的な考え方であると言えます。逆に考えれば、あなたが主導権を握ってリードする立場に立てば、うまく行く可能性が高いんですよね」
「……」
「大人になりきれない子どもだと思って、可愛いぼくちゃんだと思って母親のように接するなら、あなたの言う事を聞いてくれそうな気がしますけど、いかがですか?」
自分の利益になる事には目敏い彼女なら、この申し出を面白いと思って受け入れるだろうと零美は踏んでいた。
しばらく考え込みながら、コーヒーを飲んではチョコレートを口に含む彼女。コーヒーには、ストレスの緩和と集中力の回復、それに脳を活性化させる作用もある。彼女は「うーん」と悩んだ後に、右手でオーケーサインを作り、口角を上げて微笑んだ。
その後彼女はコーヒーを飲み干し、料金を払って帰っていった。その後ろ姿から、これからどうやって彼を操縦しようかと考える脳内のイメージが伝わってきた。零美は少し微笑んで、手つかずだったブラックコーヒーを一気に飲み干した。
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