第63話「亡き夫を忘れられない女」

切れ長の目で、一見すると涼しげでクールな印象のその女性は、「先日お電話した島谷智子です」と挨拶をした。

零美は「お待ちしていました、どうぞ」と中に招き入れ、席に着いた彼女の前に淹れたてのホットコーヒーを置いた。
「ありがとうございます」と軽く頭を下げ、顔を上げた彼女の瞳は潤んでいた。

「どうしたんですか?」と尋ねると、「あっ、いえ、ちょっと……」と言って口を右手で押さえた。その仕草から、ホットコーヒーに何か思い入れがあるのだろうと感じ取れた。

時間はたっぷりとある、気持ちが落ち着くまで待つ事にした。しばらくすると「……実はですね」と重い口が開いた。

「亡くなった夫がコーヒー好きで、よく自分で豆を挽いて私に飲ませてくれました。彼の事を思い出してしまってつい……」
「そうだったんですか」

この人の夫は、どれほどコーヒーにこだわっていたのだろうか、生前の様子がイメージされた。とにかく、豆から作るほどのコーヒー好きに悪い人はいないだろう、というのが零美の持論である。

「がんだったんです」
「がんですか」

「胃がんでした」
「そうですか……」

「もう五年経つんですけど、なかなか彼の事が忘れられないんです……」
「ですよね……」

愛する人との別れによって出来た心の穴は、なかなか埋められるものではない。娘を失くして三年の零美には、彼女の気持ちが痛いほど理解できた。

自分には、痛みを共有して支えてくれる和彦がいる。しかし、彼女にはいない……。亡き夫が使っていたコーヒーカップを見るたびに、彼を思い出しているのだろう。でも、思い出に生きるには、彼女はまだ若すぎる。

「島谷さんはおいくつですか?」
「三十三歳です」

「再婚は考えないんですか?」
「……実は」

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彼女はただ思い出話をしにきたのではない事は気づいていた。彼女の唇の動きに集中する。

「夫の友人から結婚を申し込まれたんです」
「……そうですか。それはおめでとうございます」

「ありがとうございます……」と答えた彼女の顔は嬉しそうには見えなかったので、「悩んでいらっしゃるんですか?」と尋ねた。

「私と夫と夫の友人である田嶋さんは、学生時代からの友人でした。田嶋さんは、以前から私に好意を持っていてくださったのですが、夫と結婚してからも友人として良いお付き合いをさせていただいてきました。

夫の良き釣り仲間として、また相談相手として彼を支えてくれました。そして夫が亡くなった後は、私を精神的に支えてくれました。人格的にも素晴らしい方です。尊敬しています。

でも、五年経ってもなお、夫と過ごした日々が忘れられなくて……。こんな気持ちのままで田嶋さんのプロポーズを受けるというのが、申し訳ないって言うか……」

亡き夫を思い出したのか、一筋の涙が頬を伝って流れた。零美が、持っていたハンカチを手渡すと、「ありがとうございます」と言って受け取り、しばらく顔を伏せていた。

こんなにも妻から愛され、しかも若くして亡くなった夫の心残りはいかばかりだろうか。亡き夫の気持ちを思い量はかりながら、俯く彼女を見つめていると、零美の頭に言葉が飛び込んできた。

「僕の事は気にしないで」

思わず口に出した言葉に彼女が反応した。
「え?」

「僕の計算では、きっと上手くいくはず」

続けて零美は、頭に飛び込んできた言葉を口に出していた。

「今……なんて?」

驚いた表情の彼女が聞き返した。

「僕の事は気にしないで」と、「僕の計算ではきっと上手くいくはず」という言葉が、突然私の頭の中に飛び込んできたんです、と彼女に説明した。

「実は、夫が生きていた時に、口癖のように言っていたのがそれなんです。僕の事は気にしないで、僕の計算ではきっと上手くいくはず、この言葉は決まり文句のように使っていました」

その話を聞き、零美は納得したように頷いた。

「島谷さん、ご主人は、あなたの事を本当に愛していらっしゃったんですね。若くして亡くなられて、もっと生きたいという思いもあるでしょうに……。そういう恨みつらみを訴えてもいいはずなのに、あなたの事だけを考えていらっしゃいます。

あなたがいつまでも、ご主人の思い出に縛られているのを見るのが辛いようです。あなたはまだ若い、これから幸せになってもらいたい、友人の田嶋さんにあなたの未来を託したい、そんな気持ちが、さっきの言葉に集約されているのだと思います。

ご主人の事を愛していらっしゃるのなら、ご主人の願い通りに従ってあげるのがよろしいのではないでしょうか?」

一言一言噛み締めるように伝える零美の言葉に、彼女の涙腺は完全に崩壊した。とめどなく涙が流れ出てくる。今まで胸に仕舞い込んでいたものすごい量の哀しみが、涙となって溢れ出ているのだ。

それは、彼女の夫が愛する女性のためにしてあげた、精一杯の愛の業だった。古く冷たい哀しみを洗い流さなければ、新しい喜びを迎え入れる事は出来ない。

もう僕の事は忘れて、彼と一緒に新しい人生をスタートさせてほしい、そんな亡き夫の思いが胸に飛び込んできて、零美の涙腺も完全に崩壊したのだった。

声を上げて泣き続ける二人。奥にいた和彦が驚いて飛び出てきた。和彦には霊感はないが、大声で泣く二人の周りを、温かい光が包んでいるように視えた。それは、視る者の心にも幸せを運んでくれる光だった。

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