「先生、私、最近なんだか変なんです」
そう言った彼女の目は、大きく見開いていた。それは自力ではなく、他の誰かによって無理やりにでも開かれたかのように、異様に広げられていた。
その日の夕方はやけに静かだった。ひんやりとした空気が漂っているようで、零美は嫌な予感がしていた。
そんな時、予約もなしに彼女は入ってきた。白いワンピースに、腰まである長い髪、さらにその髪は、雨でもないのに少し濡れているようだった。
呆気に取られて見ているだけの零美をよそに、すーっと音もなくソファーに沈み込んだ。まるで重さがないかのように見えた。
「あのー、ご用件は……」
恐る恐る尋ねたのは、彼女が脇に抱えていた赤いバッグが気になっていたからだ。何か鋭利な物が入っているのかも知れない。防衛本能がそう教えていた。
「最近何だか、よく眠れないんです」
とりあえず様子見のため、腰かけて話す事にした。彼女に見られないように、川崎刑事に来てもらうよう、和彦にメッセージを送った。すぐに「了解」と返信が来た。
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「いつからですか?」
「二週間くらい前からです」
気になって「食欲はありますか」と尋ねると「ありません」と答えた。「寝ない」「食べない」は危ないサインだ。霊的に敏感になってくる。特にそういう資質のある人は要注意だ。目の前の彼女は、まさしくそういう人なのだ。
「私、あの人に裏切られたんです」
「えっ? あの人って誰ですか?」
「音吉さんです」
「音吉さん? 彼氏ですか?」
「博打で負けた借金の形に、私を女郎屋に売り飛ばしたんです」
「……」
江戸時代の話だろうか? しばらく沈黙が続いた。
「夫婦の約束までしていたのに……。信じていたのに……」
「……」
絞り出すように言葉を出した後、じっと零美を見つめたまま動かない。しばらく時間が経過した後、「ううっ」と言う声が漏れ始め、見開かれた大きな目からは、ぼろんぼろんと大粒の涙が溢れてきた。
それはもう、止め処もなく流れ続けた。彼女の哀しみが、痛みが、苦しみが、針のように胸に飛び込んできた。何本も何本も、矢のように突き刺さる。
「ここにいるんでしょ?」
「えっ?」
「いるんでしょ?」
「……誰がですか?」
「音吉さんよっ!」
その声に驚いて、「ひゃっ」と声が漏れた。彼女の目が一段と開いたかのように見え、さらには、開いた口から覗いた舌が、異様に赤く腫れあがっているようにも見えた。
「いえ、あの……、音吉さんて方は、ここにはいらっしゃらないんですが……」
「嘘おっしゃい! そこにいるじゃないのー!」
いきなり立ち上がったものだから、太ももをテーブルにぶつけて、がたっと大きな音がした。仁王立ちで指を差した方向には、半分だけ顔を覗かせている和彦がいた。
「いや、あの、彼は私の夫で、加賀美和彦と言います。あなたのおっしゃる音吉さんでは……」
「嘘よっ! 忘れもしない、あの人が私を裏切った音吉さんよー!」
そう叫んだ彼女は、赤いバッグの中に手を入れた。それを見た零美は「きゃーーー!」と叫び、急いで立ち上がって和彦の元へ向かった。すると、裏口から入って待機していた川崎刑事が出てきた。
「その手をバッグから出しなさい!」
川崎刑事の大声にびくっとして、彼女の動きが止まった。
「バッグを床に降ろして、ゆっくりと両手を上にあげなさい」
そう言って、じりじりと近づいていく。その反対に、彼女はバッグに手を入れたまま、少しずつ後ずさりしていく。二人は、一定の距離を保ったままだった。
「さあ、バッグを床に降ろしなさい」
再び呼びかけるが、彼女は黙ったまま、後退を続けている。零美と和彦は、彼女と川崎刑事の駆け引きを、固唾を呑んで見守っていた。
いつの間にか彼女は、入り口のドアを背にしていた。そしてゆっくりとドアを開き、川崎刑事を睨んだまま、左足を滑らせていった。
次の瞬間、勢い良くドアを開いたと思ったら、体を反転させて一目散に外に飛び出した。それを見た川崎刑事は、「待てっ!」と言って後を追いかけた。
ぐんぐんと、風を切って走っていく。元陸上部の川崎刑事も驚く速さだった。零美と和彦も外に出て、走る二人の姿を目で追いかけた。尋常ではない彼女の速さに、思わず和彦は「嘘だろ……」と呟いた。
国道が見えた。赤信号だ。川崎刑事は「しめた!」と思った。追いつける、と安心したその時だった。彼女は赤信号に止まる事なく、国道に飛び出した。
その瞬間、大きな衝突音と共に、白い体と赤いバッグが宙を舞った。「きゃーーー!」という女性の叫び声が街中に響き渡る。「なんてこった!」思わず川崎刑事は呟いた。
彼がようやく現場に到着すると、不思議な事に、白いワンピースの彼女はいなかった。「確かに跳ね飛ばされたはずなのに……」
血の跡もなかったが、彼女が持っていた赤いバッグだけが現場に残されていた。彼は急いでバッグを開いた。
「はあはあ」と息を荒げて、零美と和彦が川崎刑事の元にやってきた。「川崎さん、彼女はどうなりましたか?」と零美が尋ねた。彼はバッグの中身を見せながら言った。
「どういうわけか、彼女の姿はありません。ただ、この赤いバッグだけが現場に落ちていました。中にはこれが……」
彼が見せたバッグの中には、新品の出刃包丁が入っていた。それを見た和彦は、バランスを崩して思わず尻餅をついてしまった。
「零美さん、彼女はこの世の者だったんでしょうか? それとも……」
川崎刑事の問いかけに、零美は首を傾げて「さあ……」とだけ呟いた。
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