「私の話を聞いてください」
昨晩に電話してきた松井悠乃の言葉からは、重苦しさが感じられた。電話の向こうでは、赤ちゃんの泣き声が聞こえていた。そして「いい加減にして!」という金切り声が聞こえた。
午後二時頃、彼女はベビーカーを押してやってきた。白いベビー服に身を包んだ赤ちゃんは、すやすやと気持ち良さそうに眠っている。起こさないように静かにドアを開け、零美は彼女たちを迎え入れた。
「可愛い赤ちゃんですね」
「ありがとうございます」
「女の子ですか」
「はい」
「お名前は何とつけたんですか?」
「美月です」
「何か月ですか?」
「六か月です」
「体重は?」
「六キロちょっとです」
「重いでしょう?」
「はい」
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昨晩の電話とは違い、明るい笑顔が見られて安心した。
「松井さんはおいくつですか?」
「三十歳です」
「初めてのお子さんですか?」
「はい。二十六歳で結婚して、初めて授かった子どもです」
「ご両親は喜んでいらっしゃるでしょう?」
「はい。初孫なんです」
「ご両親はお近くにお住まいですか?」
「いえ、北海道なんです」
「北海道ですか、遠いですね。ご主人のご両親は?」
「同じ北海道です」
「そうですか。それじゃあ、なかなかご両親に手伝ったもらう事は難しいですね」
「はい。夫も営業で仕事が忙しいので、ほとんど一人です」
両親が側にいれば、いろいろと手伝ってもらえたりするが、北海道ではそれは難しい。夫も仕事で忙しければ、ほとんどの時間は一人になってしまう。
「近所にママ友とかいらっしゃるんですか?」
「私、引っ込み思案の性格で、なかなか自分から声をかけられないんです。公園に行っても、もう仲良しグループが出来ていて、なかなかその輪に入れないっていうか……。
それで家に居る事が多いんですけど、子どもと二人っきりだと気が休まる暇がなくて、ダメだと思いながらもイライラしてくるんです」
「そうですよね。もう寝返りもする時期ですから、動きも活発になりますしね」
「はい。寝返りしてそのまま窒息しないか心配で、ちょっとの間でも目が離せないんです。特にトイレなんかが大変です」
そう言いながら、時折眠っている子どもの様子を伺っている。可愛い寝顔を見せてくれる喜びと、起きて泣き出してしまうのではないかという不安が伝わってくる。
「ご主人は子育てに協力的なんですか?」
「いえ……。夜泣きがうるさくて眠れないって言って、別の部屋で寝ています。まあ、彼も仕事で疲れているので、文句は言えませんけど……」
「そうですか。もっと協力してくれてもいいじゃないですかね。自分の子どもでもあるわけですから」
「そうなんですよ。でも、心の中ではそう思っていても、口に出しては言えないです。私が馬鹿だから、私が全部いけないんです……。
どうやっても泣き止まなくてイライラが溜まってくると、いっそ首を絞めてしまおうかと思ったりして……。私って最低の母親ですね。……ううっ」
思わず口を押さえた。声を押し殺して泣いている。寝ている赤ちゃんを起こしたくないのだ。せっかく癒しを求めてここにやってきたのに、思いっきり泣かせてあげることも出来ないなんて、零美は何とも歯がゆい思いをしていた。
「いろいろと我慢してきたんですね」
「……」黙って頷く。
「一人で誰にも頼れず、辛いでしょう?」
「……」肩を震わせている。
零美は思いついたように、和彦の携帯にメッセージを送った。するとすぐに「了解」との返信があった。
「松井さん、奥の部屋に私の夫がいるんです。仕事しているんですが、赤ちゃんを見ていてくれるって言うので、彼に預けましょうか?」
「いいんですか?」
零美は黙って頷いた。そして彼女と共に、和彦のいる部屋まで静かにベビーカーを移動させた。和彦は、彼女と赤ちゃんを笑顔で迎え入れ、小声で「任せてください」と言った。和彦に赤ちゃんを任せた後、静かに扉を閉め、二人は再び席に戻った。
「私にも娘がいたんですけどね……」と零美は話を切り出した。
「あなたと同じく、女の子でした。名前は和美です。夫と私の名前から一文字ずつ取ってつけたんですけどね。その子は、三年前に交通事故で亡くなりました」
「えっ?」驚いた彼女が声を上げた。
零美は黙って彼女を見つめ、彼女も黙って零美を見つめている。しばらく見つめあっていた二人の頬に、ほぼ同時に一滴の涙が伝って落ちた。それはまるでシンクロニシティのように、何か意味があるものに思えた。
生まれてきた娘によって、身を削る思いをしている彼女の心に共感する零美。一方の彼女は、亡くした娘の事を今でも忘れられなくて苦しんでいる零美の心に共感している。この二人の心が共鳴し、奇跡の時間を作り出していた。
零美は彼女の横に移動して、優しく彼女の体を抱きしめた。そして彼女も、零美の背中に手を回して、力強く抱きしめた。偶然にも同い年の二人は、引きつけられるように出会ったのだ。
神様は、未だに心の傷を癒せないでいる零美に彼女を送ったのだろうか。二人の母親はそれぞれの痛みに共感し、お互いを癒し合った。
「泣いていいですよ」
そう言う零美の顔は涙でぐしゃぐしゃになっており、「はい」と答えた彼女の顔も同じだった。最初は遠慮がちに小さく泣いていた二人だったが、少しずつ少しずつその声が大きくなっていった。
涙の水風船をぱんぱんに膨らませていた二人は、それをようやく破る事が出来た。止めどなく流れるものは、そのまま流してしまえば良い。
涙を溜めていると心が冷えてくる。体を冷やすと病気になるのと同じように、心も冷やすと病気になってしまう。悪化させる前に治療が必要なのだ。
その頃、奥の部屋の和彦は、少しだけ漏れてくる二人の泣き声を聞きながら、赤ちゃんが起きてしまわないかと冷や冷やしていた。その心配を他所に、赤ちゃんはすやすやと眠っている。それを見て、なかなかの親孝行だなと和彦は感心していた。
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