その女性は夕方遅くにやってきた。「予約していないのですが、お話聞いてもらっていいですか?」と言う彼女は、心なしか固い表情をしていた。「お名前は?」「梨田恵美です」「どうぞこちらへ」零美に招き入れられ、強張った面持ちのまま席に着いた。
「コーヒーなどいかがですか? 私のお気に入りの豆なんですよ」
「ありがとうございます」
悩みがあるとかではなく、話を聞いてもらいたいと言った事から、彼女の深刻さが感じられた。それは、もう解決する事は不可能だと悟っているから、せめて愚痴を聞いてもらいたいという心の表れが言葉になったものなのだ。
髪を短くしているだけでもボーイッシュなのに、上下デニムのコーデが、更に少年っぽさを強調しているように見えた。髪がショートな故に、エラの張りが隠せていない。というか、隠す気など端からないのかも知れない。
淹れたてのコーヒーの横に、チョコレートを二つ添えて目の前に置くと、「ありがとうございます」と目を輝かせた。コーヒーが好きなのか、チョコレートが好きなのかはわからないが、少し緊張が解けたように思えた。
「ところで、お話とは?」自分のコーヒーカップをテーブルに置いて零美が話しかけた。彼女は黙って頭を少しだけ上下させた後、コーヒーを「熱っ」と言いながら口にした。そのカップをゆっくりと置いてから、ふ―っと息を小さく吐いて話を始めた。
「私の両親は、私が十歳の時に離婚しました。離婚の原因は父の浮気でした」
「……そうですか。大変でしたね」と言って、零美は小さく頷いた。
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「父は母と離婚した後、浮気相手と結婚したようですが、その後すぐに別れて、今は独りだそうです。浮気相手は十歳以上も年下だったみたいですから、捨てられちゃったんでしょうね」」
「結局、お父さんは幸せにはなれなかったんですね」
「その父が末期のがんだとかで、病院から私に連絡が来ました。私が唯一の肉親なんだそうです」
「お父さんは今、何歳ですか?」
「六十三です」
「梨田さんのお母さんはお元気で?」
「母は、父が出て行った後に一人で私を育ててくれましたが、無理が祟ったのか、六年前に五十二歳で亡くなりました。余りに早すぎる死でした」
「五十二だったら早いですよね」
「父は何度も、母と縒りを戻したいと言ってきたそうですが、母は断固拒絶しました。私とも絶対に会わせませんでした」
「お母さんはかなり、頑固な方、だったんでしょうか?」
「そうですね。男っぽいと言うか、正義感が強いと言うか、ダメなものはダメって、絶対に譲らない人でした」
「なるほど。それで浮気は許せなかったんですね」
「はい。私も母のそういう性格に似ていて、浮気した父が許せません」
「そうですか……。失礼ですが、梨田さんは……独身?」
「はい。今年で三十三ですが、まだ独身です」
「付き合っている方とかは?」
「いません。男の人が信じられないって言うか、どうせ浮気するんじゃないかって思うと、本気で好きになれないんです」
「それは、お父さんの影響……でしょうか?」
「それが大きいと思います。だから、私の人生を滅茶苦茶にした父が許せないんです。父が出て行って、母がどれだけ苦労したか……」
唇をわなわなと震わせている。右奥歯を強く噛み締めている様子が感じられた。両親が離婚してからの二十三年間、この人はどのように生きてきたのだろうか。
「相当お父さんを憎んでこられたんですね」
「はい」
「お父さんもきっと後悔していらっしゃるでしょうから、亡くなる前に許してあげたらいかがでしょうか」
「許す……ですか?」
「はい。憎んでいた人を許すって言うのは大変な事だと思うんです。なかなか出来る事ではありません。
私が感じますに、お母さんはもう、許していらっしゃったと思いますよ。お父さんが若い浮気相手から捨てられた時点でもう、可哀想だなって、バカだなって思いながら、許していたと思います。
ただ、恵美さんの手前、許すって言えなかったんじゃないかなって思うんです」
「……」
「あなたも、一人で寂しく死んでいくお父さんの事を聞いて、可哀想だなって思ったんじゃないですか?」
「……」
「本当は許してあげたいけど、なかなかその勇気が出ない。それで今日、ここに来られたんじゃないかなって思うんです」
「……」
勝気な彼女は、こんな事を言われて面白くはないだろう。自分の隠しておきたかった深層心理を言い当てられるのは誰でも嫌な事だ。
余命幾許もない実父を不憫に思うのは、人として当然の事だ。ただ、母親の手前、それが出来なかった。母も娘も同じ事を想っていたのだ。
「許せなかった人を許す事が出来るようになるって事は、新しい人生をスタートするチャンスだと思うんですよね」
「……」
「お父さんに会わずに後悔するよりも、会ってお話してみられたらいかがでしょう?」
零美の話を黙って聞いていた彼女は、「ありがとうございました」と言って頭を下げ、料金を払って帰っていった。
亡くなった母親が、本当に元夫を許すつもりがあったかと問われれば、零美には自信がなかった。でも、彼女が父親を恨んだまま、これからの人生を生きるとするなら、あまりにも悲しい。父親と和解する事で、男性に対する嫌悪感を払拭できるかもしれない。
そんな期待があってのアドバイスだったのだが、果たして彼女はどのような行動を取るつもりなのか、最後まではっきりしなかったのが心残りだった。
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