平日の夕方にやってきたのは、会社帰りのサラリーマンだった。上下紺のスーツに洒落たネクタイ姿、ビジネスバッグを小脇に抱えている。
「いらっしゃいませ、お電話でご予約の林田稔様ですね?」
「はい、今日はよろしくお願いします」
深々と頭を下げた彼の顔と声の感じから、年齢は五十前後に思われた。「そんなにご丁寧なお辞儀をしていただいて」と恐縮しながら、所定の席に案内をした。
名前と生年月日を書いてもらっている間に、コーヒーを準備する。「アルコールが良かったですよね?」と軽く笑うと、「僕は体質的にアルコールは苦手なんです」という言葉が返ってきた。
「私も苦手なんです」と微笑みながら、淹れたてのコーヒーをテーブルに置いた。彼はカップを持って鼻先に近づけると、「いい香りですね」と言って口をつけた。時代劇のかつらが似合いそうな顔立ちで、初老の男にある渋みが感じられた。
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「林田さんのお悩みは何でしょうか?」と尋ねられると、少し目線を下に落とした後、思いつめたようにこう言った。
「先生、私はいつまで生きられるでしょうか?」
「えっ?」
深刻な表情で言われたからか、後ろに重心がかかるように少しのけ反った。驚いて目を見開いてしまった事を恥ずかしく思ったが、気を取り直して彼に尋ねた。
「どこかお体が悪いんですか?」
「いえ、体は何ともありません」
「ではどうして、いつまで生きられるかなんておっしゃったんですか?」
零美は単純に、不思議に思った事を尋ねた。重い病気の故に余命を知りたいのならわかるのだが、見た目も元気そうだし病気もしていないのに、どうして余命が知りたいのか。
「私の母は六十一歳で亡くなりました。母方の祖父も六十一歳で亡くなりました。そう考えると、私も六十一で亡くなるのかなあと思うんです」
「それは、たまたまの偶然ではないでしょうか」
「そうかも知れませんが、そうじゃないかも知れません。人の寿命は生まれた時から決まっているという話も聞いた事がありますし」
「そういう人もいますが、私にはよくわかりません」
零美は右手を横に振りながら、顔も左右に振った。
「あなたは何歳で死ぬ、とか言い当てる人もいるじゃないですか」
「そういう話も聞いた事がありますが、本当かどうかはわかりません」
「先生の噂はよく聞いています。先生だったら、いつ死ぬかわかるんじゃないかと思ったんですよね……」
「申し訳ありませんが、私にはわかりません」
「そうですか……」
残念そうな顔で見つめてもらっても、わからないものはわからない、例えわかったとしても、言えるはずがない、零美はそう思っていた。
「どうして寿命を知りたいんですか?」
「いつ死ぬかがわかれば、それまでに準備出来るじゃないですか」
「準備とは?」
「いろいろですよ。借金を家族に遺さないようにしたいでしょ。あと、いろんなパスワードも書き残しておかないと家族が困りますしね。ネットで契約しているものとかも解約しないといけませんし」
「なるほど」
「それと、いつ死ぬかがわかったら、保険に入っておけば残された家族が助かるじゃないですか」
「それはでも、詐欺みたいな話ですが……」
「何年かは払っておけば、文句言われないんじゃないですかね」
「とにかく、家族に迷惑かけたくないんですよ」
「奥さんが聞いたら喜びますよ、きっと」
家族愛を感じる感動的な話に、思わず目が大きく開いた。
「いや、でも、うちの奥さんには、ある程度お金を遺してあげないといけないんです。あの人が老後を困らないように、ある程度は遺さないとですね。だから寿命が知りたいんです」
「奥さんを愛していらっしゃるんですね」
「いや、そんなんでもないんですけど……。あの人と結婚する時に、お金持ちになって幸せにしてあげるって言ったのに、未だにお金持ちじゃないので……」
「そうですか……。まあでも、人間の寿命なんてわからないと思いますよ。一寸先は闇だって言うじゃないですか。明日突然、通り魔に刺されて死ぬかもしれませんしね」
「ああいう事件の被害者って、生まれた時からそういう運命なんですかね?」
彼は右手を顎に添えて、右肘をテーブルについた後、左上を見上げるようにして言った。
「う――ん、それはどうなんでしょうか? 幼い赤ちゃんが殺される事件を聞く度に可哀想だなあと思いますが、それが生まれた時に決まっていたとは信じたくないですね」
「確かに……」
彼は零美の言葉に深く頷いた。
「そう考えると、人がいつ死ぬかなんて決まっていたら困る気がします」
「そうですよ。そうしたら絶対、自暴自棄になって犯罪を犯す人が増えると思います」
彼は、小さく何度も、繰り返し頷いていた。運命なんて決まっていたらつまらない、未来がわからない方が幸せなんだと言い聞かせているように思えた。
「わかりました。とりあえず、死ぬ時までは一生懸命に生きたいと思います」
彼はそう言って、料金を払って帰っていった。帰り際、何度も何度もお辞儀をしていく姿が微笑ましく思えた。
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