平日の夕方遅くにやってきた男性は、どこかで見た事がある顔だった。メガネをかけて丸顔で体全体が大きな彼は、いつもはニコニコとしているのに、今日はとても沈んで見える。
「昨日電話した、岸田隆治です」
「あっ、岸田さんってあの、よくテレビに出ていらっしゃる芸人さんの?」
「はい。いつも見てくださってありがとうございます」
大きな体を小さくして深々とお辞儀をした。テレビ画面でのキャラクターと違い、内面は誠実で真面目そうに思えた。テーブル席に案内をしてコーヒーの準備をする。カウンターから覗くと、緊張が高まっているように思えた。
一方で、彼の横で温かく見守っている存在が感じられた。ずっと以前から彼の事を知っていて、喜びや悲しみを共に享受してきた間柄のようである。岸田がその存在に気づいていないのが寂しいようだった。
零美はそんな関係性を目の前にしながら、とても羨ましく思えた。そして、彼の座るテーブル席に向かって軽くお辞儀をした。それに気づいた彼は、どうしてお辞儀をしたのか理解出来ないまま、とりあえず会釈で返した。
零美は淹れたてのコーヒーを持って席に着いた。「ありがとうございます」と彼がお辞儀をする。大柄で暑がりの彼にはアイスコーヒーが良かったかなと後悔したが、美味しそうに味わう彼を見て、心配は無用に思えた。
「何か気になる事があるんですか?」と質問すると、「僕、芸人辞めようと思うんです」という答えが返ってきた。数年前からテレビ番組でも活躍するようになった彼は、相方を病気で亡くして以来、ずっと悩んでいたのだ。
「幼稚園の頃からずっと一緒で、僕が芸人になれたのも彼が誘ってくれたからでした。彼がいなかったら今の僕はいません。だから……」
そう言って下を向き、唇を噛み締めて両肩を震わせた。
「辞めたらあかんよ」
「えっ?」
零美の言葉に驚いて顔を上げた。
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「今のは?」
「相方の三田さんです」
「えっ?」
「三田さんがそこに居ます」
「……」
そう言われて、左に顔を向ける岸田。しかし誰もいない。
「三田がここに居るんですか?」
「はい。あなたの傍に」
「彼はどんな顔をしていますか?」
「とびっきりの笑顔です」
「そうですか。それは良かった」
彼は笑いながら泣いていた。細い目を思いっきり細めて笑いながら、その目からは涙が流れていた。
「どうしたんですか?」
「いや、嬉しいんです。病室で苦しそうな顔しか見ていなかったから。やっと楽になれたんだなと思って……」
零美は三田のメッセージを受け取り、彼に伝える。
「三田さんが、気にしてくれてありがとうっておっしゃっています」
「そうですか」
「元気出して、僕の分まで頑張ってくれって」
「……」
「君が、諦めないでやろうやって言ってくれたから続けてこれたって」
「えっ?」
「三田さんが、もう芸人辞めたいって言った時、岸田さんが諦めないで頑張ろうって言ったそうですね」
「……」
岸田は下を向いて黙ったまま、何度も何度も頷いていた。
「三田さんは、岸田さんにすごく感謝しているそうです」
「そ、それは、僕の方こそ感謝しないといけないくらいで……」
「芸人になる時に自分から誘ったくせに、下積み期間が長くてもう辞めたいって言い出した時、岸田さんが一生懸命引き留めてくれたって。だから途中で諦めないでやれたし、やっと食べて行けるようになった。本当に感謝してるって……」
「うううっ……」
岸田は、テーブルに顔を突っ伏して泣き始めた。声を上げて泣いた。身長が百八十センチを超え、体重も百キロ近い大きな体を小さくして、感情を抑えきれずに泣き喚いた。
彼の大きな声は、広いライブ会場でコントを演じる時のように、店内に響き渡った。年齢は三十も半ばを過ぎ、四十も近づいてきた分別のある男性が、幼い子どものように泣きじゃくっている。
しかしそれは、悲しい涙ではなく嬉しい涙だった。相方であり、幼馴染みの親友の言葉がもう一度聞けたからだ。もう二度と会えないという喪失感で、仕事に対する情熱も失いかけていた彼に、惜しみなく注がれた愛の言葉だった。
零美は、彼の飲みかけのコーヒーカップを持ってカウンターに入った。冷めてしまったコーヒーを捨て、新たに熱々のコーヒーを注ぐ。やはり彼には、アイスコーヒーよりも熱々のホットコーヒーで正解だった。哀しみで冷えた体は温めた方が良いだろう。
ひとしきり泣いた彼に、そっとコーヒーを勧めた。彼は軽く頭を下げ、出し切って空っぽになった体に温かいコーヒーを注ぎ込む。時折、左に居るであろう相方の方を見つめては、コーヒーカップを勧める仕草をする。
「昔はこうやって、一杯のコーヒーを二人で飲み合いっこしたものです」
「そうそうって、三田さんが頷いていますよ」
「そうなんです。彼の口癖はそうそうなんですよ。懐かしいなあ」
彼は小さくため息をつくと、零美の目を優しく見つめた。
「先生、あいつにこう言ってください。もうちょっと頑張ってみるよって。君の分まで頑張ってみるよって……」
零美は岸田の言葉を三田に伝えた。そして「頑張れよって、三田さんが」と彼に言った。岸田は黙って頷き「ありがとうございました」と言って、お金を支払って帰っていった。彼の後ろ姿を見送っていた三田の姿も、いつの間にか視えなくなっていた。
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