「こんばんは」
ドアの方から聞こえたその声は、微かに聞こえる小さな声だったが、テーブルで書き物をしていた零美はすぐに気付いて、急いで入り口に向かった。そこに立っていたのは、髪の長い色白の女性で、全身を白で固めた線が細い人だった。
「どうも。予約されていましたっけ?」
「いえ、予約はしておりませんが、出来ますか?」
「ああ、大丈夫ですよ。どうぞ入ってください」
申し訳なさそうに頭を下げて、言われた通りにテーブル席に着いた。弱々しそうな彼女のために、零美はコーヒーを淹れた。彼女にはコーヒーが似合うと、直感で感じたからだ。
「どうぞ」
「あっ、すいません。良いんですか? ありがとうございます」
いちいち恐縮する辺りが気になるが、さも当然という態度よりは好ましかった。コーヒーカップを持つ手を見ると、白い手袋を嵌めていた。そう言えば、来た時からずっと手袋を嵌めていたのを思い出した。どうして嵌めたままなのかが気になった。
「あっ、これですか? すいません」
零美の不思議そうな視線に気づいたようで、手袋を嵌めたままの理由を語り出した。
「実は私、極度の潔癖症なんです」
「潔癖症、ですか……」
「はい。どうしても、外出している間は手袋を欠かせないんです」
「それは、他人が触ったものを触れない、って事ですよね?」
「……はい」
彼女は恥ずかしくてうなだれた。彼女の悩みはこれだった。極度の潔癖症のため、自分以外の人が触れたものは汚らわしく感じるのだ。よくテレビ番組などでも聞く話なのだが、大抵の人の場合は、自分こそ正しいと主張したがるものだ。
しかし、彼女の場合は違っていた。自分がおかしいと認識しており、そういう自分である事を申し訳なく思っている。そういう自分を許せないと思っているのだ。
日本の社会では、個人よりも全体を優先する教育をしているため、人と違うと言うのはとても生きづらいものだ。それでも、強い人なら何とか自己主張出来るが、彼女の場合は自分が悪いのだと思い込んでいる。
「いろんな場面で困る事が多いんじゃないですか?」
「そうですね。どうしても手袋を嵌めていられない時もありますので、そういう時は、家に帰ってから何度も何度も手を洗います」
「今はお一人でお住まいですか?」
「はい」
「ご結婚は?」
「将来的にはしたいと思うのですが……。こんな私を好きになってくれる人がいるでしょうか?」
「人と握手するなんて、難しいですよね?」
「はい。家族や親しい人なら大丈夫なんですが」
「じゃあ、信頼出来る人なら触れる事は出来ると?」
「はい」
「じゃあ、私も信頼してもらえたら、握手が出来るって事ですかね?」
「そうですね。先生は綺麗好きって感じですし、私の味方になってくれそうだから、多分大丈夫です」
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そう言って彼女は、両手の手袋を取った。そして、零美に向かって右手を差し出した。「あっ、えーっと、いいんですか?」と零美は戸惑ったが、「……はい」と彼女は答えた。
零美は、恐る恐る手を出してみた。そして彼女も、恐る恐る零美の右手の指先に触れてみる。彼女の中指と零美の中指の先が触れ合った。彼女が「あっ」と小さく叫び声をあげて右手を引っ込めた。
「ごめんなさい」
「大丈夫ですか?」
「……はい、大丈夫です。もう一度お願いします」
彼女がそう言ったのを合図に、二人は少しずつお互いの右手を近づけていった。そして再び、二人の中指の先が触れ合った。今度は、彼女の右手は動かなかった。そして少しずつ手を滑らせていき、しっかりと握手を交わす事が出来た。
「やりましたね!」
零美は思わず叫んだ。「はい!」と答えた彼女の顔もほころんでいた。零美は更に、自分の左手をそーっと動かし、彼女の右手を挟み込むように添えた。
すると彼女も、自分の左手を零美の右手を挟み込むように添えた。二人の体は電流が流れたかのような感覚になり、しばらくそのまま動かなかった。
「どんな感じですか?」
「そうですねえ。先生の手が温かいです」
「あなたの手も温かいですよ」
「人の手の感触、ずーっと忘れていました。なんかとても懐かしい気がします」
零美は彼女と手を繋ぎながら、あるイメージが浮かんできた。
「私が今感じたのは、あなたの場合、自己評価がすごく低かった気がします」
「自己評価ですか?」
「はい。自分は価値のない人間だと。自分は汚らわしいと。そんな意識が、人と触れてはいけないと思い込ませていたのではないかなあって、そんな気がしたんです」
「はあ……」
「だから、自分を受け入れてくれる人とは触れ合う事が出来る。家族や親しい友人とかはそうですよね」
「はい」
「私も、今日初めて会いましたけれども、この人は私の味方だと思ってくれたからこそ、触れ合う事が出来たんじゃないかと思うんです」
「……ああ、そうですね。わかります。先生に会って、少し話をしただけで、私の事を全て受け入れてくれるような気がしました。だからなんですね。ああ、そうなんですね。良かったあ」
彼女の顔がぱあーっと華やいだ。白くて弱々しかった体に、温かい血が巡りだしたように思えた。まるで、止まっていた火山が動き始めたかのようだった。
「こうやって、少しずつ味方を増やしていってください。そして、素敵な男性と出会って結婚される事を期待しています」
「ありがとうございます」
そう言った彼女の両目からは、涙の雫が流れていた。それを確認した零美は、彼女の手を放そうと思ったが、彼女がそのままでいる事を願っているようなのでやめた。時が止まったかのように、二人はそのまま手を繋いで離さなかった。
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