デパート地下街の菓子売り場に勤める山口夏南に「ちょっと良いですか?」と声をかけてきたのは、スーツにネクタイ姿でサラリーマン風の男性だった。
「得意先に謝罪に行かないといけないのですが、菓子折りは何が良いと思いますか?」
「定番は、とらやの羊羹ですかね。老舗の和菓子屋ですし、羊羹の重みがお詫びの気持ちの重さを表現していると言います。賞味期限が常温で一年ほどですし」
「じゃあ、それでお願いします」
塚田武志は即決で、夏南の言う通りに「とらやの羊羹」を買った。深々と丁寧にお辞儀をしていった塚田。短髪で爽やかな笑顔が印象的な三十歳後半の男性の登場に、三十を超えても男性に縁のない夏南は、久しぶりのときめきを感じていた。
翌日、「こんにちは」と後ろから声をかけられた夏南が振り向くと、爽やかな微笑みを浮かべた塚田が立っていた。
「あなたのお陰で、得意先への謝罪がうまくいきました。ありがとうございました」
「そうですか。それは良かったです」
「良かったら、お礼をさせていただけませんか?」
「お礼、ですか?」
その夜、夏南は塚田に誘われて住宅街の隠れ家的カフェに来ていた。
「すいません、私たいした事していないのに」
「いえいえ、あなたのお陰で仕事がうまくいったんですから」
今まで男性に縁のなかった夏南は、二人きりで食事をするなんて初めての事だった。緊張でがちがちに固まっていた夏南だったが、ユーモアを交えた塚田との会話で少しずつ硬さがほぐれていった。
塚田は、父親の会社を継いだばかりだと言う。時に夢を語り、時に弱音を吐く。時に笑ったり時に泣いたりする。そんな塚田に、夏南は段々と惹かれていった。その後も夏南は、塚田と何度も会うようになった。そして出会って三か月後、自然な流れで二人は結ばれた。
出会って一年が経とうとしていた頃、塚田は夏南にこう言った。
「実は今月厳しくて、あと八十万足りない。必ず返すから、貸してくれないだろうか?」
この頃から結婚を意識していた夏南は、塚田を助けたい一心でお金を貸した。そしてその翌日から、塚田と連絡がとれなくなってしまった。
平日の夕方、夏南は友人から聞いた零美の店にやってきた。
「こんばんは」
「山口夏南さんですね。お待ちしていました。どうぞ」
席に着いた夏南に、零美がコーヒーを持ってきた。
「ありがとうございます」
「今日はどのようなご相談ですか?」
零美の問いかけに、少し間を置いてから夏南は話し始めた。
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「実は、ある男性の事について知りたいと思いまして……」
「ある男性とは?」
「一年前からお付き合いしている人です。最近連絡が取れなくなってしまいまして……」
「そうなんですか」
「それで、よく考えてみると、私は騙されていたんじゃないかって思いまして……」
「騙されていたと言いますと、お金を貸していたと?」
「はい」
「なるほど。では、あなたとその男性の命式を調べてみましょう」
零美は夏南と塚田の命式を出し、プリントアウトしてテーブルに並べた。
「この人は、論理的思考が得意で頭が良い人です。こういう人は物事を計画的に進めていきますから、おそらくあなたに接触するまでにも、周到な下準備をしていると思いますよ」
「えーーー?」
会う前から計画していたとは、何とも恐ろしい話だと夏南は思った。騙しやすい標的として目をつけられてしまったのかと思うと、背筋が凍りついた。
「目的達成のためには手段を選ばないと言うか、非情になれる強さがあります」
「そうなんですか。じゃあ、あの優しさも演技、と言う事ですかね?」
「そういう可能性が高いのではないでしょうか」
夏南は塚田との日々を思い出していた。夏南が風邪を引いて寝込んでいた時には、卵粥を作ってくれたりした。酒を飲みながら、夏南の職場での愚痴を延々と聞いてくれたりした。あれもみんな演技だったなんて、とても信じられない。夏南は、自然と涙が零れてきた。
父親が厳しい人だった夏南は、子どもの頃から男性に対して心を開く事が難しかった。そのため、男性と付き合うなんて考えた事もなかった。そんな夏南の心を、初めて開かせてくれたのが塚田だったのだ。
「先生、私、とても信じられないです」
零美は、目に大粒の涙を溜めた夏南の顔を見るのが辛かった。
「警察に、被害届を出しますか?」
零美の問いかけに、夏南はこう答えた。
「それは……被害届は……出そうとは考えていません」
「ええっ?」
意外な言葉に零美は驚いた。八十万円と言う大金を騙し取られたのに、警察に訴えないとはどういう事なのだろうか。
「男性に縁がなかった私に、唯一優しくしてくれたのが彼でした。彼と過ごした一年間は、私が女としての幸せを感じられた日々でした。それにはとても感謝しています」
「そうなんですか」
「だから、八十万円は、そのお礼として彼にあげたいと思います。騙し取られたとは考えたくないんです」
彼女はそう言って微笑んだ。その顔は、彼女の言う通り、彼を恨んでいるようには思えなかった。
その頃、塚田は大阪にいた。友人の結婚式の帰り、寂しそうに歩いている三十代の女性に声をかけていた。
「あのー、もしかしたら友人の結婚式の帰りですか?」
振り返った彼女に、塚田は優しく微笑んだ。
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