夕食の準備をしている新藤歩美は、ふと隣でキャベツを切っている母の和子を見た。身長百五十二センチの母が小さく見えた。
父親を早くに亡くし、女手一つで育ててくれた母。小さい頃、母と手を繋いで歩いた時は見上げていたのに、今は自分が見下ろしている。母が小さくなったのか、自分が大きくなったのか。
まだ五十二歳なのに、同年代と比べて随分と老けて見える。歩美を育てるために、複数の仕事を掛け持ちして働いた。顔のしわや手の荒れが、母の苦労を物語っていた。
「お母さん、今までありがとうね」
「何よ、急に」
和子は、思いもよらない娘の言葉に恥ずかしくなった。貧乏のために我慢を強いてきた娘に、恨み言を言われるのは耐えられるが、感謝される方が耐えられなかった。和子は、溢れそうになる涙を必死に堪えていた。
「私……まだまだ、お母さんの料理、マスターしてない……」
「……いいのよ。焦らないでね。ゆっくりでいいの」
一か月後には、歩美はこの家を出なければいけない。黒田一輝との結婚の日が迫ってきているのだ。結婚するのは嬉しいのだが、母との思い出が詰まったこの家を出なければいけないのは辛い。歩美は、一種のマリッジブルーのような状態に陥っていた。
日曜の午後、歩美は零美の店に来ていた。少しでも不安な気持ちを解消するために、何かアドバイスが欲しいと思ったからだ。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。ご予約の新藤歩美様ですね。どうぞ」
歩美は一目見ただけで、この人は普通の人と違う、と直感的に思った。人より敏感な歩美は、会ってすぐに人を判断する癖がある。この人は信用出来る、歩美はそう思った。
「ホットコーヒーでよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
零美もまた、歩美を一目見て、感受性が鋭い事を見抜いていた。そして、コーヒーが好きだと言う事も。コーヒーを用意して席に座った零美は、歩美に尋ねた。
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「今日はどうしましたか?」
「あっ、あのー、私事なんですが、今度結婚する事になりまして……」
「それはおめでとうございます」
「あっ、ありがとうございます。それで、今ちょっと悩んでいまして……」
「どうしてですか?」
「私、実は母子家庭なんです。母が一人で育ててくれたんですけど。母を一人残して結婚するなんて、親不孝じゃないかなって思って……」
「なるほど。お母さん思いなんですね」
「いや、そんな。ただ、お母さんには苦労ばかりかけてしまったので……」
歩美は思わず、右手で口を押さえた。まつ毛の長い瞳からは、大粒の涙が零れた。頭の中で、小さい頃の思い出がぐるぐると駆け巡っていた。
零美はそっと、ハンカチを差し出した。口を開くと、大声で泣きそうな歩美は、黙ってお辞儀をした。左手で口を押さえ、右手でハンカチを持って目に当てた。そんな歩美を、零美は温かい眼差しで見守っていた。
感受性の強い歩美は、言葉よりもすぐに、涙が出てしまう。嬉しくても悲しくても、勝手に涙が出てきてしまう。体が勝手に反応してしまう、そうとしか言いようがなかった。見守っている零美もまた、同じような体験をしてきていた。まるで双子のような二人だった。
しばらく泣いた後、落ち着いてきた歩美に零美は、「じゃあ、彼氏さんとの相性でも観てみますかね」と優しく語りかけた。歩美は黙って頷いた。零美は、歩美と黒田一輝の生年月日をパソコンに入力し、割り出された命式をプリントアウトして並べた。
「これがお二人の命式です」
「私たちの相性は……どうですか?」
恐る恐る尋ねる歩美に、零美は優しく答えた。
「とてもお似合いのカップルです。優しい彼は、あなたの事をよく理解してくれています。あなたはとても傷つきやすい人ですから、彼のような人が良いと思います」
「はい」
歩美は頷いて、零れる涙をハンカチで受け止めた。確かに一輝は優しかった。今まで出会った男性の中で、一番優しいと思える人だった。
「彼もまた、傷つきやすい人なんですよね」
「はい」
「だから、二人の絆は強いんです。傷つきやすい人ほど、目の前の人を守るために強くなれるんです」
「うわーーーーん」
もう限界だった。我慢出来なかった。歩美は声を上げて泣いた。普段は人前では、絶対泣かないように我慢していた。心を許した人の前だけ泣くようにしていた。今までそれは、母と一輝だけだった。でも、歩美にとって零美はもう、他人とは思えなくなっていた。
敏感な歩美にも、零美の心の痛みが伝わってきていたのだ。音叉が共鳴するように、二人は心で共鳴し合った。零美が今まで流してきた幾つもの涙が、歩美の心の中に流れ込んできた。それはまるで、決壊したダムのように、もの凄い勢いで流れ込んできた。
時を同じくして、零美の心の中でも、全く同じ事が起こっていた。二人はまさに、同じ心を共有しているかのようだった。
そして、歩美の心の中は空っぽになった。傷ついた枯れ木の残骸のような心のかさぶたが、綺麗に押し流され、澄んだ水が広がっていた。
もう、歩美に迷いはなかった。彼と結婚する。自分が幸せになる事が、母に対する最高の親孝行だと思えた。
四年の月日が流れ、歩美は念願の赤ちゃんを妊娠した。その事を一輝に伝えると、飛び跳ねて喜んだ。そして一輝は、一つの提案をしてきた。
「ねえ、君のお母さんと住まないか?」
「えっ?」
「僕の両親には兄夫婦がいる。僕は、君のお母さんと一緒に住みたいんだ」
「本当?」
優しく微笑んで頷く一輝に、歩美は思いっきり抱きついた。
「大好き!」
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