第37話「年下の男を愛した女」

 沢口みどりが通う鍼灸院は、駅から歩いて十分ほどの場所にあった。エレベーターでマンションの五階に上り、みどりは一番奥の部屋に着いた。

 インターホンを押すと、「はーい、どうぞ」と声がした。みどりがドアを開けると、「いらっしゃいませ」と言って、奥から鍼灸師の萩尾圭司が現れた。萩尾の顔を見たみどりは、それだけで体が熱くなるのを感じた。

「体調はいかがですか?」

 萩尾はすぐに、自分の体の事を心配してくれた。そして笑顔を投げかけてくれた。十五歳も年下の男性に心惹かれているみどりは、年甲斐もなく恋をしていた。

「ちょっと、肩凝りがひどくて」
「そうですか、それは大変ですね」

 そう言って、萩尾はみどりの肩に触った。結婚して二十年になる夫と触れ合わなくなってから、もう何年になるだろうか。夫の昌彦は、肩が凝ったとみどりが言っても無関心だ。

「では、こちらへどうぞ」

 うつ伏せになったみどりに、萩尾は手際良く鍼を打っていった。だんだんと、緊張していた筋肉が緩んでいく。と同時に、心の凝りまでもほぐれていくようだ。

 みどりは、少しも優しくない昌彦に嫌気が差していた。みどりの事など放っておいて、休みの度に好きな釣りに出かけている。高校生になる息子は、部活のサッカーに夢中だ。誰にも相手にされないみどりは、一週間に一回、萩尾に会うのが楽しみだった。

 学生時代にバレーボールをしていたみどりは、腰を痛めたのをきっかけに、鍼治療を受けるようになった。長年通っていた鍼灸院が閉店になり、新しく通い始めたのが萩尾の所だった。

 初めて萩尾に会った時は、ただの鍼灸師としか見ていなかったのだが、何度か通い続け、話をしていくうちに、真面目で誠実な人柄に惹かれていった。

 決して怒らず、声を荒げる事もしない。いつも穏やかに笑っている。昌彦とは正反対の萩尾の魅力に、みどりはどんどん引き込まれていった。

「終わりました」

 夢見心地だった、みどりの至福の時間が終わった。「ありがとうございました」とお礼を言って会計を済ませ、恥ずかしそうに店を出た。

 みどりと萩尾は、別に特別な関係ではない。萩尾にとってみどりは、ただの顧客に過ぎない。独身の萩尾だが、四十七歳のみどりに対して、恋愛感情を抱く事もない。ただ、みどりが一方的に意識しているだけなのだった。

 その日みどりは、いつか行ってみたいと思っていた零美の店にやってきた。予約したわけではないので、忙しければすぐに帰るつもりだった。

「あのー、すいません」

 みどりは遠慮がちに声をかけてみた。すると奥から「はーい」と声がして、零美が急いでやってきた。

「どうも。お客様は、鑑定希望の方ですか?」
「はい。予約はしておりませんが、よろしいですか?」
「大丈夫です。どうぞ中へお入りください」

Sponsered Link



 軽くお辞儀をして、みどりは席に着いた。「コーヒーでもいかがですか?」と聞かれたので、「いただきます。ありがとうございます」と頭を下げた。みどりには零美が、自分よりもかなり年下に見えた。そんな彼女に、あの悩みを打ち明ける自分を恥じていた。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

 出されたコーヒーを少し口に含むと、何とも味わい深い感覚があった。しかし、「美味しい」とは思いながらも、表情には出さなかった。そんなみどりの心を見抜いていた零美は、少しだけ含み笑いをした。

「今日は、どのようなご相談ですか?」
「あっ、相談と言いますか……。ちょっと胸の内を聞いてほしくて参りました」

 実際、みどりは、占いをしたくてきたわけではない。ただ誰かに、自分の本音を聞いてもらいたかったのだ。それは、誰でも良いというわけにはいかない。秘密を守ってくれる人でなければならないからだ。

「そういう事ですね。大丈夫です。どんな話でも、絶対に他言はいたしません。秘密は守りますので、何でもおっしゃってください」

 噂に聞いた通り、この人は信頼出来る人だと思った。変に説教じみた話などしない、どこまでも相談者の味方になってくれる、と聞いていた。その通りだとわかって、ようやくみどりは安堵した。

「実はあのー、私には、夫と子どもがいるんですが」
「はい」
「なんですが……好きな人がいるんです」
「好きな人、ですか?」
「はい」
「その人とは、いわゆる、不倫の関係なんですか?」

 意外にも、ストレートに聞かれたので驚いた。しかし、零美が真剣な表情だったので、親身になって話を聞こうとしてくれている事が感じられた。

「いえ、不倫だなんて。全くそんな事はありません」
「そうなんですか」
「はい。相手の方は、私の事なんて、女としては見ていません」
「その方は、もしよろしければどのような……」
「私がお世話になっている鍼灸の先生です」
「そうなんですね」
「私が一方的に好きになっているだけで、向こうは、私の気持ちなんて知りもしません」
「なるほど」
「私だって、彼とどうこうなりたいとは思っていません」
「はい」
「ただ、一週間に一度会うだけで、癒されると言うか、満足と言うかですね……」

 ここでみどりは、言葉を止めて下を向いた。自分の気持ちを整理しているようだ。零美は急かす事もせず、ただ黙ってみどりの顔を見つめていた。その瞳は清らかで、純粋で、濁りがないように見えた。みどりは、自分がとても汚れているように思えた。

「あのー……」

 しばらくして、零美が口を開いた。みどりは顔を上げて、零美の顔を見た。

「私、その気持ちって、すごく良いと思います」
「えっ?」
「人を好きになるって、とても良い事だと思うんです」
「そうなんですか?」

 みどりは、零美の意外な言葉に驚いた。いい歳をして、と軽蔑されるのではないかと思っていたからだ。

「人を好きになると、気持ちだけでなく、体も若々しくなると思うんですよね」
「体も……」
「はい。それと、優しい気持ちになれると思うんです」
「優しい気持ちに?」
「はい。誰かを好きになるって、とても素敵な事だと思うんですよね」
「そうなんですか」
「例えば、アイドルの追っかけがいるでしょ?」
「はい」
「ああいう人たちは、別に自分が恋愛出来るとは思っていませんよね」
「はい」
「でも幸せじゃないですか。それと同じだと思うんです。あなたにとって、その人はアイドルみたいな存在だと」
「アイドル……」
「そう考えると、後ろめたい事はないんじゃないですか?」
「なるほど。そうですね」
「彼に癒されて、優しい心を持って、ご主人や息子さんに接したらどうでしょうか?そうすると、彼に会うのは、却って良い事になりますよね?」
「……はい」

 みどりは、零美の言いたい事が理解出来た。家族のために彼に会いにいく。そして癒されて帰ってくる。その幸せな気持ちを、今度は夫や息子に与えれば良いのだ。

 みどりの幸せそうな笑顔を見て零美は、「もう大丈夫だ」と心の中で感じていた。

『雨の中の女 神野 守 短編集 第1巻』amazonで販売中!

https://www.amazon.co.jp/dp/B07FYRKPL2/

Sponsered Link



投稿日:2018年12月19日 更新日:

執筆者:

以下からメールが送れます。↓
お気軽にメールをどうぞ!

こちらから無料メール鑑定申し込みができます。お気軽にどうぞ!
お申込みの際は、お名前・生年月日(生まれた時刻がわかる方は時刻も)・生まれた場所(東京都など)を明記してください。
ご自身のこと、または気になる方との相性などを簡単にポイント鑑定いたします。何が知りたいかを明記の上、上記までメールを送ってください。
更に詳しく知りたい方には有料メール鑑定(1件5000円・相性など2人の場合は7000円)も出来ます。

最新の記事をツイッターでお知らせしています
神野守(@kamino_mamoru)





  • 6現在の記事:
  • 57986総閲覧数:
  • 138今日の閲覧数:
  • 172昨日の閲覧数:
  • 1299先週の閲覧数:
  • 2986月別閲覧数:
  • 32636総訪問者数:
  • 102今日の訪問者数:
  • 123昨日の訪問者数:
  • 976先週の訪問者数:
  • 2257月別訪問者数:
  • 125一日あたりの訪問者数:
  • 2現在オンライン中の人数:
  • 2018年8月14日カウント開始日: