天気の良い平日の午後、「こんにちは」と店を訪れたのは、顔に老いが刻まれた年配の女性だった。予約などはなかったが、「お話聞いてもらえますか?」と言う彼女の哀願の表情が、悩みの深さを物語っていた。
七十代から八十代と思われ、よろよろと歩く彼女の手を取り、「こちらへどうぞ」と優しく誘導してソファーに座らせた。「すいませんねえ」と頭を深々と下げた彼女の両目は、涙で濡れていた。
彼女には、コーヒーではなく、温かい緑茶を用意した。昭和の初めから今日にかけて、日本で長く生きてきた彼女には、日本人的飲み物が良いだろうと思ったからだった。
背中を丸めてお茶をすする彼女に「どうしましたか?」と声をかけた。ちびりちびりと飲んでいた彼女は、湯飲みを置いて零美に話し始めた。
「私はね、天涯孤独になりました」
「えっ?」
天涯孤独と言う言葉は、ドラマや映画の中で聞いた事はあったが、零美が実際に耳にしたのは今回が初めてだった。
「三か月前、一人息子が亡くなりました。夫は二年前になくなりました。私の身内はもう、誰も居りません」
零美は、彼女の言葉に黙って頷くしかなかった。最愛の夫を亡くしただけでも辛いだろうに、更に一人息子まで亡くなったとは……。八十前後の彼女は、これからどうやって生きていくのだろうか?
「息子さんは、ご結婚はされてなかったんですか?」
「結婚はしましたが、離婚しました。子どもはいませんでした」
せめて孫が居れば、血筋は繋がっているのだが、結婚はしても子どもが居なかったのだ。
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「息子の葬儀の後はもう、何もする気が起きません」
「そう……でしょうね」
「考え事が多くなって、夜に眠れないんですよ」
「お体は大丈夫ですか?」
「頭が痛いです」
「肩が凝っていらっしゃるのかも知れませんね」
零美はそう言って、彼女の後ろに回って肩を揉みだした。岩のように固くなっていたので、軽く撫ぜるように擦り続けた。丸まった背中も固い。肩から背中、腰にかけて、万遍なく擦った。
「気持ち良い。ありがとう」
両手を合わせてお礼を言う彼女の目には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。頼りにしていた息子を亡くし、途方に暮れていたのだろう。少しばかり優しくされただけでも、堪えていた思いが溢れ出てくるものだ。
時には、どんなに優しい百の言葉よりも、ただそっと手を当ててもらうだけで癒されるものである。人の手の温もりが、孤独でない事を実感させるからだ。
彼女は、鑑定に来た客ではない。ただ、話を聞いてほしかったのだ。零美は、その人に相応しい癒しを提供するようにしている。それは時に、優しい言葉だったり、厳しいアドバイスだったりもするが、今回は言葉よりも、スキンシップが有効だと思った。
占い師は、先生と呼ばれる事で、自分は尊敬される人間なのだと誤解する者も時にはある。しかし、知識ある者が人を癒せるとは限らない。相手が欲するものを与えられるかどうかが問題なのだ。
共感を求めている人には、アドバイスをするのではなく、ただ共感するだけが有効である。黙って話を聞いてほしい人には、ただ聞き役に徹する事が重要だ。
「これだけ凝っていたら、頭も痛くなりますよ」
「そうね。ストレスからかなあ」
「そうですね。ストレスがかかると、血管がキューっと収縮すると言いますから。そして緊張状態が続く事で、筋肉が硬くなってくるのだと思います」
「息子が居なくなって、身内が一人も居なくなって、一人っきりになってから、ずっと体が重だるいの」
「そうですか……。近所にお友だちはいらっしゃらないんですか?」
「親しい人はみんな、亡くなっていったわねえ。新しいお友だちを作る元気もなくなって、あまり外には出たくなくなったわ」
「今日は、たまたまこの店に来られたんですか?」
「そうねえ。天気も良いから、ちょっと出てみようかなって思って。たまたま看板を見て、話だけでも出来たら、少しは元気が出るかなって思って……」
「そうですか。そうでしたら、これからも遠慮なく寄ってくださいよ。私で良かったら、話し相手にでもなりますから」
「そうかい。ありがとうございます」
彼女は、仏でも拝むかのように、零美に向かって目を瞑ったまま合掌した。零美は何の解決策も提示出来なかったが、また来てくれれば良いなと思った。窓から差し込んでくる穏やかな日差しが、二人を優しく包み込んでいた。
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