ある日の午後、水沢峻也は社長に呼ばれて社長室にやってきた。ドアをノックして「失礼します」と声をかけると、「どうぞ」と返事が返ってきた。水沢はドアを開け、深々とお辞儀をした。「よく来てくれたね」と声をかけたのは、芸能事務所社長の谷口光治郎だ。
「水沢君、体の調子はどう?」
「お蔭さまで、今はすっかり回復しました」
水沢は、舞台の練習中に足を踏み外して転落、幸い骨折はしなかったが、大事をとって休養していた。
「君の舞台を、大勢のファンの皆さんが楽しみにしているからね」
「はい。今後も芸に精進いたします」
社長を前にして緊張したままの水沢は、硬い表情を崩さなかった。
「実は今日、君に折り入ってお願いがあるんだ」
「はい。何でしょうか?」
「私ももう、随分な年齢になってしまった。いつまでも元気とは限らない」
「そんな、社長! まだまだ元気で頑張っていただかないと」
「いや、人間、引き際が肝心なんだ。引き際を見誤ったら、全てが台無しになってしまう。この事務所の現状を、君もよく知っているだろう」
「それは……」
度重なるタレントの不祥事が重なり、事務所のイメージダウンは避けられなかった。若い人たちに夢を与えるべきタレントたちが、次々と問題行動を引き起こしている現状に、中堅の位置にいた水沢は少なからず胸を痛めていた。
「新しいイメージを世間に与えるためには、清廉潔白で信頼の厚い、若い人がリーダーにならなければならない。そうじゃないかな?」
「確かに、おっしゃる通りです」
「私は君を、次期後継者と考えている」
「えっ?」
驚いた水沢は、思わず後退りした。社長の次期後継者とは、即ち時期社長を意味している。いきなりの宣告に、ただただ戸惑うしかなかった。
「そ、そんな。私なんて……。私より先輩の皆さんがたくさんいらっしゃいますし。何より、私は社長の器なんかありません。本当に、勘弁してください」
水沢は、これ以上下がらないくらいに頭を下げた。とにかく、社長になんてなりたくない、その思いが頭の中で一杯になっていた。
「水沢君。すぐにとは言わん。じっくりと考えてくれ。君が舞台に命を懸けている事はよく知っている。私も君の舞台を見るのが楽しみだ。しかし、誰かに後を継いでもらわないといけないと考えると、やっぱり君しかいないんだ」
「そ、そんな……」
「まあ、とにかく、じっくりと考えてくれ。頼むよ」
水沢は、動揺を隠せないまま社長室を出た。そしてその日は寄り道もせず、真っすぐ自宅に戻った。ゆっくりと風呂に浸かり、早めに布団に入って、寝付けない夜を過ごした。
翌日、水沢は、知人から話を聞いていた零美の店を訪れた。人生に於ける大きな決断をする前に、是非アドバイスをもらいたいと思ったのだ。
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「水沢です」
「お待ちしていました」
前もって、タレントの水沢峻也が行くと電話で伝えてあったので、零美も冷静に応対できた。これが突然だったなら、それこそ平常心ではいられなかっただろう。それでもやはり、零美も女性なので、美青年の水沢を前に緊張しないではいられなかった。
緊張を隠しながら、極上のコーヒーを用意した。カップを持つ手が震えて零さないように用心しながら、水沢の前に置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
軽くお辞儀をした水沢。何気ない水沢の所作に、男の魅力がそこはかとなく感じられた。
「水沢さんの生年月日は、こちらでよろしかったでしょうか?」
パソコンの画面に映し出された命式を水沢に見せた。水沢が来る前に、あらかじめインターネット検索で調べておいたのだ。
「はい。間違いありません」
「わかりました」
間違いない事を確認し、その命式を紙にプリントアウトして水沢の前に置いた。
「水沢さんはかなり感受性が強いので、表現者向きですね」
「ありがとうございます」
「創造力が豊かで、常に新しいものを創りだしたいと言うか、旧態依然から抜け出して、新しい道を切り開くリーダーという感じです」
「リーダー、ですか」
「はい。芸術的才能に溢れている方なので、ご自分でも表現したいのでしょうが、それだけでは心が満足しないようですね」
「と言いますと?」
「個人だけでは限界があるので、みんなを巻き込んで大きな芸術性を表したい。そういう更なる高みも目指したいと言うか、高い理想を常に持ち続けていらっしゃいますよね」
「そうですね。理想は常に高めに設定しています。現状には満足出来ない人間なんでしょうね」
「水沢さんは、個人の幸せよりも全体の幸せを優先したい人で、全体のために自分を犠牲にする事は苦じゃない人だと思うんです」
「確かに、そうかも知れません」
「今年は、今までの実りを収穫して新しく出発する年になります。そういう環境が準備されていくはずです。直感が鋭い方なので、直感を信じてこれからの道を決めていかれたら良いと思います」
「直感を信じて?」
「はい。ご自分の直感を信じて」
「わかりました。ありがとうございます」
水沢は、深々とお辞儀をして店を出た。そして、歩きながら零美の言葉を繰り返していた。「直感を信じて」と言う言葉が頭の中を駆け巡った。
芸能界デビューから今までの事が、走馬灯のように思い出された。尊敬する先輩たちや可愛い後輩たち、いろんな顔が浮かんできた。
実際、社長業なんて、自分に合っているかどうかは自信はない。しかも、多くのタレントたちの生活に責任を持つ事になる。
荷が重いと思う反面、チャンスだと言う思いも湧いてくる。社長から後継指名されるなんて、そうそうあるものでもない。これを逃して良いものだろうか?
何よりも、今の事務所の現状を考えると、何とかイメージ回復の手を打たないといけない。それを誰かがしないといけないとしたら?
様々な思いを巡らしながら、水沢の足は事務所へと向かっていた。水沢は黙々と歩きながら、だんだんとある思いが固まっていくのを感じていた。そして水沢は携帯電話を取り出し、社長に電話をかけた。
「社長、あの件ですが。僕で良ければ、是非やらせてください」
水沢は、自分の直感を信じた。
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