日曜の午後、竹内亮太は柴田みゆきと公園に来ていた。家族連れで賑わう公園のベンチに座り、用意してきた言葉を思い返していた。
「お話って、何ですか?」
そう言って、みゆきは亮太の顔を覗き込んだ。付き合い出して十年、いつまでもしてくれないプロポーズを、今か今かと待ってきたみゆきは、今日こそ聞けると期待していた。
「あっ、あのー……」
亮太はそう言ったまま、口ごもってしまった。
亮太が二十六歳の時、二十歳のみゆきが同じ劇団に入ってきた。東北の同郷だった二人は、出会って間もなく意気投合し、自然と付き合うようになった。そして、みゆきが亮太のアパートに引っ越してきて、二人は同棲を始めた。
亮太は、劇団とアルバイトを掛け持ちし、みゆきは、正社員として就職。亮太を経済的に支えてきた。そんなみゆきのために、亮太は答えを出さなければならなかった。
今年三十歳になるみゆき。みゆきの両親も、娘の結婚を心配している。早く孫の顔を見せてあげなければならない。そう考えると、定職に就いて安定した生活を始めるべきだ。
しかし、それは夢をあきらめる事を意味していた。十八歳で劇団に入り、人生の半分を演劇の世界に費やしてきた亮太には、なかなか決められる事ではなかった。それでも亮太は、自分の夢よりも、みゆきを幸せにしなければならないと、男としてのけじめを選んだ。
「もし良かったら、僕と結婚してください」
「……はい」
亮太は、零美の店を訪れた。
「こんばんは」
「どうも。竹内亮太様、お待ちしていました」
軽くお辞儀をした亮太は、零美に導かれて席に着いた。カウンターでコーヒーを用意した零美は、二つのコーヒーカップを持って席に着いた。
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「今日はどのようなご相談ですか?」
「実は、今度結婚しようと思っているのですが……」
「それはおめでとうございます」
「ありがとうございます」
亮太は恥ずかしそうに頭を下げた。
「それで、悩みがありまして……」
「悩みと言いますと?」
「今僕は、劇団で役者をやっているんですが、家庭を持つとなると役者を辞めないといけないかと思いまして……」
「それは、収入という事ですかね?」
「そうですね。今はアルバイトをしているのですが、将来子どもの事を考えると、定職に就かないといけないと思うんです」
「彼女は何とおっしゃっているんですか?」
「彼女は……役者を辞めないでほしいと……」
「夢をあきらめないで、と言う事ですね?」
「はい」
実際、みゆきは、亮太の才能を信じていた。いつかその才能が花開く時がくるから、役者を辞めないで、私が働いて稼ぐからと、そう言うのだった。
「では、お二人の命式を観てみましょう。生年月日を教えていただけませんか?」
零美は、亮太とみゆきの命式を出し、テーブルの上に並べた。二人の命式を見比べながら、零美はしばらく考えていた。そして、思いついたようにこう言った。
「竹内さん、諦める必要はありませんよ」
「えっ? どういう意味ですか?」
「役者を諦める必要はないと思います」
「どうしてですか?」
「みゆきさんと結婚するんですよね?」
「はい」
「みゆきさんと結婚する事で、彼女が持っている強運によってかなりチャンスが巡ってくるはずです」
「そ、それは本当ですか?」
「はい。結婚して世に出るようになった役者さんは結構いらっしゃいますよ。竹内さんもそのパターンですね」
「そ、そうなんですか?」
「はい。だから、役者を辞めない方が良いと思います」
「本当ですか? 信じて良いんですか?」
「はい。私を信じてください」
零美が自信たっぷりに言い切ったその言葉が、まるで魔法のように、亮太の心を支配していった。それは催眠術のように、亮太の頭に刻まれたのだった。
その後、亮太はみゆきと結婚したのだが、零美の言う通り役者を続ける事にした。みゆきもそれに賛成し、二人で夢を追いかける事になった。
そして結婚してから一年が経ったある日、亮太にチャンスが巡ってきた。カンヌ映画祭の常連監督が、亮太を映画に抜擢したのだ。亮太はそのチャンスを見事に活かし、一気に世間に知られるようになった。
映画に出る前と出た後では、信じられないくらいに亮太の生活は変わってしまった。忙しい撮影の合間の休憩中、亮太が携帯電話を確認すると、みゆきからメッセージが入っていた。そこにはこんな事が書かれてあった。
「赤ちゃん出来ました。お父さんになりますね。これからもよろしく」
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