日曜の午後、おぼろげな記憶を頼りに、松田美咲は懐かしい土地を歩いていた。父親の転勤で、中学校時代を過ごした思い出の場所は、三年前と同じように、美咲を優しく迎え入れてくれた。
ここでの三年間を、美咲は今も忘れられない。転校が多くて、なかなか友人を作りにくい美咲は、初めての中学生活に不安を感じていたのだが、そんな美咲に優しく声をかけてくれたのが、同じクラスの保坂倫太郎だった。
「松田さんは絵が上手いね」
「えっ? あ、ありがとう……」
美咲は、勉強に集中出来なくなると、ノートに絵を描く癖がある。それを隣の席の倫太郎が見ていたのだ。
倫太郎は、物語を考えるのが好きだった。特に猫が好きで、主人公の猫が旅をする物語を書いていた。登場するキャラクターは全て猫で、それぞれがいろいろな能力を持っていた。授業中に考えついたストーリーを、ノートの端にメモしたりするのだった。
「このキャラクター、絵に出来ないかな?」
そう言って、倫太郎は専用のノートを美咲に見せた。それはマモルという猫で、人間並みに頭が良いという設定だった。美咲は、頭が良いというイメージで、黒縁の丸いメガネをかけさせて、首には蝶ネクタイをつけた。
「こんなのでどうかな?」
恐る恐るノートを渡した美咲は、倫太郎の顔を不安げに見つめた。黒縁の丸いメガネは、倫太郎に似せたものだった。
「うん、良いよ。すごく良い! 僕のイメージにぴったりだ」
「どれどれ?」
横から、倫太郎と仲良しの上地理久が割り込んできた。
「へー、すごいな。これ、松田さんが描いたの?」
「う、うん……」
「プロみたいじゃん。プロになれるんじゃね? なあ、倫太郎」
「うん。僕もそう思う」
「これ、ちょっと貸して。みんなに見せてくる」
そう言って、理久は美咲のノートを持っていった。明るい性格の理久はクラスの人気者で、倫太郎とは小学校からの親友だ。倫太郎と理久のお陰で、美咲はクラスのみんなと仲良くなることが出来た。
美咲は、倫太郎が好きだった。勉強やスポーツが特に出来るというわけではない。顔も特に美形というわけではない。ただ、優しく美咲を受け入れてくれた、それだけだった。
美咲は割と、目鼻立ちがはっきりしていて、どちらかと言うと可愛い部類に入る。しかし、本人にはその自覚はなかった。自己評価が低く、劣等感の塊だった。「こんな自分を好きになってくれるはずがない」そう思い込んでいた。
結局、中学の三年間で、美咲は倫太郎に告白出来なかった。倫太郎が自分の事をどう思っていたのかわからないまま、父親の転勤で引っ越していったのだ。
美咲は今、中学時代の香りがする街に戻ってきた。この街に住むために、ここから近い大学に入った。全ては、もう一度倫太郎に会うためだった。
しかし、倫太郎の自宅までは知らない。たとえ知っていたとしても、訪ねていく勇気は美咲にはない。ただ、偶然の出会いを願って街を歩いていたのだ。
するとふと、美咲はある店の前で立ち止まった。ドアには「よろずお悩み解決所」と書かれてある。美咲は吸い込まれるように、店のドアを開けていた。
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「こんにちは」
美咲にしては大きな声を出した。大学生になったのだから少しは変わらなければ。そんな思いが美咲にはあった。店の奥から「はーい」という声がして、零美の姿が見えた。感受性の強い美咲は、零美の発するオーラに圧倒された。
「いらっしゃいませ。ご相談に来られたんですか?」
「あっ、えっと……。すいません、予約もなしに突然来ちゃって」
「良いんですよ。どうぞ」
零美の優しい笑顔に、美咲の恐怖心は完全に消え去った。美咲は、優しく受け入れてもらえると、泣きたいほど嬉しくなる。もうこの時点で、零美のことを完全に信用していた。席に通された美咲は、出されたコーヒーを一口含み、少し心を落ち着けてから話を始めた。
「相性を……観てもらいたいんですが……」
「わかりました。では、お二人のお名前と生年月日を教えてください」
零美は美咲から聞いた通りにパソコンに入力し、二人の命式を出した。
「お二人とも似ていますね」
「えっ? 本当ですか?」
「はい。お二人とも、あまり自己主張せず、控えめ。そしてお二人とも、感受性が強くて傷つきやすいので、相手を傷つけないように気を遣っています」
「あー、そうですね。はい」
「魂の結びつきが強いですね」
「本当ですか?」
「この人とはどういう関係ですか?」
「中学の同級生です。私が片想いしています」
「なるほど。でも、私が感じるところでは……。彼も片想いしていますよ、あなたに」
「えーーーー?」
「お互い恥ずかしくて、告白出来なかったんですね」
「そうなんですかあ……」
思わぬ事を聞かされて、美咲の胸は激しく動揺していた。心臓の音が聞こえるほどに、激しく拍動しているようだ。しかし、喜びは長くは続かない。
「でも、三年間も会っていなかったら、私のことなんて忘れていますよね?」
漫画みたいに奇跡が起きるとは信じられなかった。奇跡を信じたいのだが、期待と違った時のショックを考えると、怖くて仕方なかった。
「うーーーん、それはどうでしょう。二人は結ばれる運命にある気がするんですけどねえ」
零美にそう言われると、信じてみたくなる。勇気をもらった美咲は、何度もお礼を言って店を出た。
三日後、美咲がホームで電車を待っていると、後ろから声を掛けられた。
「あのー、もしかして、松田美咲さんじゃありませんか?」
誰かと思って振り返ると、見覚えのある丸いメガネをかけた男性だった。
「僕、中学で一緒だった保坂倫太郎ですけど、松田美咲さんですよね?」
「えっ? あっ、はい、松田です。ほ、保阪くんですか?」
「あー、やっぱり。懐かしいなあ。さっきから、そうじゃないかなあって見ていて思ったんですけど。良かった、松田さんに会えるなんて、ラッキーだ。今日は良い日だなあ」
「え、えーー……」
ラッキーだなんて。今日は良い日だなんて。そんな事、松田くんに言ってもらえるなんて、私の方がラッキーだわ。美咲は顔を真っ赤にしながら、心の中で呟いていた。
電車に乗ると席が空いていたので、美咲と倫太郎は並んで座った。その後、次々と人が座ってきて、二人は密着せざるを得なくなった。
住んでいる場所や通っている大学などの話をしたが、自分の右手と倫太郎の左手がくっついているのが気になって、倫太郎の話も半ば上の空で聞いていた。
「ところで、連絡先を聞いても良いですか?」
「あっ、はい……」
お互いの連絡先を交換すると、携帯のSNSに着信があった。「松田さんは今、付き合っている人はいますか?」と倫太郎がメッセージを送ってきた。
下を向きながら横目で見ると、倫太郎が下を向いて携帯を見ている。美咲は「付き合っている人はいません」と返信した。
すると「今、好きな人はいますか?」というメッセージが送られてきた。突然の展開に美咲が困っていると、続けて「もし良かったら、僕と付き合ってくれませんか?」と送られてきた。
驚いた美咲が、顔を上げて倫太郎を見ると、下を向いたまま目を瞑っていた。美咲はしばらく考えた後、「私の好きな人は保阪くんです。良かったら私と付き合ってください」と送った。
着信音に気づいてメッセージを見た倫太郎は、右手で小さくガッツポーズをした。美咲は思い切って、右手の手のひらを広げてみた。
それを見た倫太郎は、左手をズボンでこすった後、そっと美咲の左手の上に乗せた。美咲が握ると、倫太郎も握り返してきた。止まっていた二人の恋の時計は、少しずつ動き始めたようだ。
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