柴田かすみはリングの上で闘っていた。亡き弟の一弘への思いを胸に。そして、彼女の闘いを見守るセコンドには息子の克己、多くの観衆たちも、亡き一弘への思いをかすみに託していた。
柔道一家の柴田家は、オリンピック日本代表だった父の充、姉のかすみと妹のみゆきは日本代表で世界選手権優勝、そして一弘も柔道選手という格闘技一家だった。
一弘は、オリンピック出場を逃したことをきっかけに、柔道から総合格闘技に転向。甘いマスクと強気な言動、エキセントリックなプレースタイルと圧倒的な実力で、一躍スター選手になった。
姉のかすみは、結婚と出産を機に現役を引退。その後、離婚して現役復帰し、オリンピック出場を目指すも願いは叶わず、再び現役を引退した。そして、弟の一弘に師事して総合格闘技の道へ進み、少しずつ強豪との対戦を重ねていった。
そんな折、突然の不幸が柴田家を襲った。一弘のがんが判明したのだ。それでも一弘は、闘病を隠しながらもチャリティーなどに参加し、多くの人たちに勇気を与えた。そして、力を振り絞って、姉のかすみのトレーニングを支えた。
世間にもがんであることを公表し、必ずがんを克服してリングに戻ると宣言したが、願いは叶わず、四十歳でこの世を去った。
多くの仲間たちやファンが、哀悼のメッセージを送った。そのメッセージは、どれも生前の一弘の人柄が偲ばれる心温まる内容だった。
もちろん、柴田家の家族たちも悲しみに暮れていたが、かすみはある思いを胸に秘めていた。それは、十日後に控えた格闘技イベントへの参加だった。
昨年の大みそかに闘って負けた、元世界チャンピオンのセレナ選手とのリベンジマッチだ。一弘が願っていたリベンジを果たすため、絶対に負けられない一戦だった。
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セレナ選手との対戦を三日後に控え、かすみは知人に紹介されて零美の元にやってきた。身元がバレないように変装をして訪れたかすみを、零美は神妙な面持ちで迎えた。
「この度は一弘さんのこと、ご愁傷様でした」
「お気遣いありがとうございます」
「さあ、どうぞこちらへ」
零美はかすみを席に着かせて、コーヒーを二人分用意した。かすみはお辞儀をして、コーヒーを一口飲んだ。そして、零美の目を見ながら、秘めた思いを伝えた。
「弟が亡くなって間もないですが、今度試合をやります」
「えっ?」
「それが、弟でもあり師匠でもあった一弘への、私なりの供養だと思って」
「……そうですか」
零美は驚いたが、かすみの気持ちを思いやった。家族として、まだ喪に服したいという気持ちもあるはず。しかし、以前から決まっていた日程だろうから、変更も出来ないのだろう。なにより、格闘技に命を懸けてきた弟に対して、また格闘技の師匠に対して、試合に勝つことが最高のプレゼントになる。
「どうでしょうか? 何としても勝ちたいのですが、私は勝てるでしょうか?」
零美はかすみの命式を出した。さすがに強運の持ち主である。顔は美形だが、内面は男より男らしい。こだわりが強く、アスリートに多い星を持っている。負けん気が強く、勝負師に相応しい。
なによりも今年は、かすみにとっては結果が形になって表れる年である。さらには、下を見ながら考えていた零美がふと顔を上げた時、かすみの後ろで笑っている一弘の姿が視えた。これはもう、一弘が太鼓判を押しているように思えた。
「大丈夫です。きっとあなたが勝ちます」
そう言って零美は、自信たっぷりに答えた。それはかすみにとって、大きな大きな勇気となった。胸をほっと撫で下ろしたかすみは、立ち上がって深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます。先生の言葉に力をいただきました」
振り返って帰っていくかすみの後ろ姿を視ると、背中に羽が生えているように視えた。それはそれは大きな羽だった。
そして三日後、遂にその日はやってきた。多くのファンが見守る中、元世界チャンピオンのセレナ選手を相手に、かすみは常に自分の得意な形で闘いを進め、最終的には判定勝ちを収めた。昨年のリベンジを果たしたのである。
拳を高く突き上げて天を仰いだかすみの目には、自分を見下ろすように笑っている一弘の笑顔が視えた。
「一弘、やったよ!」
かすみは心の中で叫んでいた。
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