ある日の午後、零美は久しぶりに公園にやってきた。ここは、和美がまだ生きていた頃、家族三人でよく遊びに来た公園だった。
多くの母子が遊びにやってくるこの場所は、零美にとっては懐かしい思い出の場所であるが、同時に和美のいない現実を思い出させる嫌な場所でもあった。
しかし、以前ここで、和美と名乗る女の子に出会ったことがある。少しの間だけ、その子の体を借りた和美と、話をすることが出来た。零美は、何故か今日、またその子に会えるような気がした。
あの子と会ったベンチに座ってみた。周りを見渡してみるが、どうやら今日は来ていないようで、少しがっかりした。そんなに都合良くいくはずがない。そう思いながら、雲一つない快晴の空を眺め「気持ち良いなあ」と少し呟いてみる。
インドア派のためか、いつも店の中にいることが多く、よほどの用事がない限り、外には出ない。買い物は、料理が得意な和彦がしてくれる。まあ、人が多いところは、様々な感情が行き交っているので、敏感過ぎる零美には辛いから、という理由が大きい。
ベンチにもたれかかった零美は、思い切り両手を天に突き上げて「うーーーん」と唸ってみた。人もまばらな公園で、誰も零美を見ている人はいなかった。たまには開放的になるのも、精神安定のためには必要だろうと自分を納得させていた。
しばらくして、ふと足元を見ると、黒い猫がこっちを見ている。大きな目をして全身が真っ黒な猫だった。零美は自然と、その猫に手を伸ばしてみた。
すると、逃げもしないで近寄ってくる。人懐こいのは、どこかで飼われていた猫なのかも知れない。猫を抱き上げて膝の上に乗せてみると、甘えた声で「にゃーん」と鳴いた。嬉しくなった零美は、猫に向かって話しかけた。
「あなたのお名前、なんて言うの?」
「和美」
「えっ?」
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猫が喋った。いや、そんなはずはない。空耳か?目を擦ってもう一度猫を見た。やっぱりどうみても、普通の猫でしかない。零美は笑いながら話しかけた。
「あなた、人間の言葉がわかるの?」
「うん」
「うん? にゃーじゃなくて、うん?」
「さっきからもう、しつこいな」
「えっ? うそ?」
はっきりと喋った。それはもう、文章になっていた。そしてどことなく、苛ついているような気もする。
「もう、お母さん! 和美だよ」
「えっ? 和美? どうして?」
周りを見渡すが誰もいない。猫だけだ。やはりこの猫が喋っているのだ。
「和美ちゃん、なの?」
「うん、だからそう言ってる」
やっぱり苛々した感じの表情だ。猫にも表情があったのか。零美は初めて知った。零美はどう考えても、和美が話しているとしか思えなかった。
「この前の女の子じゃなくて、今度は猫?」
「うん。あの子より、この猫の方が良い感じだね、しっくりくる」
「なんか……大人っぽくなったね……」
「ああ、この猫が多分、それなりに大人の猫なのかも」
この前の女の子に入った時は、それでもまあ、理解出来る部分はあったけれど、猫に入ることが出来るなんて。漫画の世界ならありそうだが、実際に自分が体験するまでは想像も出来なかったことだ。
それでも、たとえ猫の体だとしても、和美と話が出来るなんて。嘘でも良いから信じたいと零美は思った。
「この猫、野良猫みたいだから、お母さんが飼ってあげてよ。そうしたら、私も一緒に住めるもん」
「ああ、そうね……。猫ちゃんには悪いけど、体を貸してもらおうね」
「野良猫ちゃんだって、人に飼われた方が楽に決まってるよ。餌ももらえるんだし」
「そうだね。じゃあ、一緒にお家に帰ろう」
とりあえず、近所の動物病院に行って、病気がないか先生に診てもらった。いろいろと先生から飼うにあたっての注意点を教えてもらい、キャリーバッグやトイレセット、餌などを購入した。
自宅に戻ると、和彦が夕食の支度をしていた。
「和彦さん、話があるんだけど……」
「なーに?」
和彦は火を止めて、零美のところにやってきた。テーブルの上に置かれたキャリーバッグの中に猫、その周りにキャットフードやトイレ用品があった。
「どうしたの? 猫飼うの?」
「うん。 拾ってきた」
「へー。オス? メス? どっち?」
「メス」
「名前は決めたの?」
「うん。和美」
「そうか、和美ちゃんか。よろしく和美ちゃん」
和彦は猫が大好きだ。前から飼いたいと言っていたのだが、実際に飼うまでには至らなかった。和彦は、キャリーバッグから和美を取り出して抱っこした。
「にゃーん(お父さん)」
「うんうん、可愛いね」
和美の言葉は和彦には伝わらない。零美は、本当に和美が乗り移っていることを教えたかったが、自分でもまだ信じられないことだったので、しばらくは黙っていることにした。
父親に久しぶりに抱っこされた和美は、嬉しそうな顔をしていた。少なくとも零美にはそう見えた。
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