第70話「中絶に悩む女」

 夕暮れの薄暗い部屋。カーテンを閉めた部屋で、谷山優香は膝を抱えて座っていた。同棲している神田幸雄が、口論の末に「絶対許さない」と吐き捨てて部屋を出て行ったのだ。

 床に置いた携帯電話の画面には、優香が幸雄に送った「ごめん」の文字。しかし、いくら待っても幸雄からの返信はない。もう帰ってこないのかも知れない。

 もともと優香の住んでいた部屋に、幸雄が転がり込んできた形だ。幸雄の荷物と言っても、ほとんどないに等しい。

 優香は、少し膨らんだお腹を擦ってみた。この中に、小さな命が宿っている。もとから結婚する気のない幸雄は、産まないでほしいと言う。

 二人とも二十三歳。特に幸雄は、まだ遊びたい、結婚したくない、親になりたくないと言っている。優香も最初は、まだ子どもは早いと思っていた。

 しかし、実際にお腹に宿してみると、私は母親なんだと言う実感が日に日に強くなる。これが男と女の違いなのだろう。お腹を痛めて産んだ子とはこのことなのだ。

 母親の暴力を受けて育った優香は、家庭の愛情に飢えていた。優香を産んで早くに離婚した母は、日々のストレスを優香にぶつけた。

 自分が母親になったら、愛情を持って育ててあげたい。そう思い続けてきた。結婚はしたくないと言うが、子どもが出来たらきっと幸雄は喜んでくれる、そう思っていた。

 でも、実際は違った。男なんてみんなそうだ。責任感の欠片もない。こんなに頑張って赤ちゃんが生きようとしているのに、堕ろせなんて残酷すぎる。握り拳を床に思い切り打ちつけると、痛みと同時に涙が零れてきた。

 しばらくぼーっとしていた優香は、思い出したように携帯電話を取って電話をかけた。

「もしもし、先生? 私、谷山優香です。お願い、助けて」

 悲痛な涙声に異変を感じた零美は、「すぐに来て」と優香に言った。「うん」と答えた優香は、財布と携帯電話だけを持って、すぐに部屋を飛び出した。

 優香の家から零美の店は、自転車で十五分くらい。今まで何度も、幸雄との関係を相談してきた。優香にとって零美は、姉のようであり、母のようでもあった。

「ごめんなさい。突然電話しちゃって」
「いいのよ。中へどうぞ」

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 零美の優しい笑顔を見ただけで、優香の涙腺は崩壊しそうになった。零美は、この世で誰よりも自分のことをわかってくれる存在。優香はそう思っている。

 優香の様子を見て零美が用意したお勧めドリンクは、ホットココアだった。冷えた心を温める時には、ホットココアを出すのが零美の流儀である。

 優香は「いただきます」と言って、少し口に含んだ。猫舌の優香には熱かったようで、「熱っ」と呟いてからカップを置いた。

「何があったの?」と聞きたかったが、黙って下を向いている優香を思いやって、言うのを辞めた。優香はもともと、口数が多いほうではない。頭の中ではいろいろと考えているのに、それを口に出すまでには時間がかかる。

 しばらく待っていると、優香が重い口を開いた。「あのね、先生……」そう言った途端、どっと涙が溢れ出した。零美は慌てて優香の横に移動し、「大丈夫」と言って肩を抱いた。

 少し膨らんだお腹を見た零美が、「妊娠してるのかな?」と尋ねると、優香は黙って頷いた。普通の女性なら、喜んで報告したいはずである。そうでないのだから、これは望まない妊娠なのだ。

 零美は全てを理解した。以前の鑑定で、幸雄の性格はわかっている。自己中心的で、自分の思い通りにならないと気が済まない。自由に生きたい。束縛されたくない。家庭には向かない男だ。

 しかし、そんな幸雄を優香は愛してしまった。結婚する気がないことはわかっていたけど、子どもが出来れば変わると思っていたに違いない。だから優香は産みたいのだ。

「彼はどうなの? 産むなって言うの?」
「……うん。産みたいって言ったら、喧嘩して出て行った……」
「そっかあ……」

 かける言葉が見つからない。彼女が一人で育てられないのは知っているからだ。

「優香ちゃんは産みたいんだよね?」
「産みたい……」
「どうしても?」
「だって、この子は一生懸命生きているんだもん。私のお腹の中で生きているんだもん。私お母さんだから……お母さんの私が守ってあげなきゃ、だめなんだ」

 零美は、優香の瞳に強い意志を感じた。

「でも、産んでも育てられないよね?」
「……うん。だけど、施設に預けるのは嫌だ」

 母親に虐待された優香は、施設に保護されて過ごしてきた。自分と同じ寂しい思いをさせたくない。だけど一人では育てられない。堂々巡りだ。そんな優香に、零美はある提案をした。

「優香ちゃん、私も最近知ったんだけど、特別養子縁組という制度があるの」
「……何ですか、それ?」
「あなたのように、事情があって子どもを産んでも育てられないお母さんはたくさんいる。そして、子どもが欲しいのに授からない夫婦もたくさんいる。生まれたばかりの新生児を、実子として迎えることができるのが特別養子縁組という制度なの」
「子どもが欲しいのに授からない……」
「そういう人たちが里親になるという約束をして、生まれてくる子どもを待つの」
「じゃあ、この子は望まれて生まれてくる、そういうこと?」
「そう。でも、あなたはお母さんにはなれないけど」
「……そうですよね」
「でも、この子のことを考えたら、そういう方法が一番良いかも知れない」
「……はい」

 複雑な顔をしている優香。お腹を痛めて産んでも、母親だと名乗ることは出来ない。だけど、絶対に堕ろすことなんて出来ない。これしかないんだ。自分にそう言い聞かせながら涙が止まらない優香の肩を、零美はしっかりと抱きしめていた。

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投稿日:2019年1月21日 更新日:

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