独り暮らしをしている母の初枝を世話するために、夫と娘を神戸に残して谷村美奈子は東京に移り住んだ。八十五歳になる初枝は、体は丈夫でなんともない。ただ少し、認知症が進んできているのが気がかりだった。
父を早くに亡くし、母一人子一人で育ってきた。いつかは施設に入ってもらうしかないかも知れないが、出来れば娘として出来る限りのことをしてあげたい。
元教員で真面目な性格だった初枝は、特に趣味などはない。友人も少なく人と話す機会が少なかったことも、認知症を進める要因だったのかもと美奈子は思った。
足腰が丈夫なだけに、じっとしていてくれないことも悩みだった。目を離すと、一人で外に出てしまう。転んで怪我でもしないか、帰り道がわからなくなってしまうのではないか、という心配が絶えなかった。
「お母さん、ご飯ですよ!」
昼食を作っている美奈子が台所から声をかけるが、返事がない。「お母さん!」ともう一度呼んでみるが、やはり何の応答もない。まさか、と思って居間に行ってみると、そこに母の姿はなかった。
和彦と零美は、お昼にラーメンを食べていた。和美も「食べたい」と言うので、熱くないように皿に移した。零美は、おいしそうに食べる和美を見ながら、生前うどんが好きだったのを思い出した。
突然「ごめんください!」という大きな声がした。誰か来たと思い、零美は急いで入り口に向かった。そこには、背筋をピンと伸ばした老婆が立っていた。
「どちら様ですか? 鑑定希望の方ですか?」
「えっ? かんてい?」
「占いで来られたのではない、と?」
「えっ? うらない?」
話がどうも噛み合わない。
「あのー、お客様のお名前は?」
「えっ? なまえ?」
「はい。お名前を伺ってもよろしいですか?」
「なまえ……なまえ……わからない。思い出せない」
「お客様、失礼ですが年齢はおいくつでいらっしゃいますか?」
「ねんれい?……わからない」
奥から和彦が出てきて「認知症じゃないかな?」と言った。「認知症……」なるほど、確かに顔の皺からかなりの年配に見える。八十は越えているだろう。和彦の言う通り、認知症で徘徊しているのかも知れない。零美はそう思った。
和美がやってきて「にんちしょうって何?」と聞いた。零美は「人間は、おじいちゃんおばあちゃんになるとね、みんな昔のことを忘れていくようになるの。それがひどくなると、自分の名前も忘れてしまう。それが認知症という病気なの」と答えた。
和美は、老婆の周りをぐるぐると回った。そして零美にこう言った。
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「おばあちゃん、名前もわからなかったら、お家に帰れないんじゃない?」
「そうねえ……困ったわねえ」
「私が捜してくる」
「えっ?」
「おばあちゃんの顔を写真にして、この前みたいに首から提げて聞いて回る」
「ああー……」
零美は、川西松子の飼い猫のしーちゃんがいなくなった時に、和美が写真をぶら下げて捜し回ったことを思い出した。それは名案だと思い、早速老婆の顔を写真に撮り、和彦に印刷してもらって和美の首から提げた。
「じゃあ、悪いけどお願いね。車には気をつけるのよ」
「はーい。行ってきまーす」
和美は元気よく飛び出し、出会う猫たちに聞いて回った。
『知らないわ』『知らないね』『知らねえよ』
やっぱり、そう簡単にはいかなかった。前回同様、誰も知らないと言う。しかし、和美には当てがあった。行き慣れた家を目指してスピードを上げた。
『茶々!』
『……和美』
茶々は相変わらず、飼い主の家の前でじっと座っていた。
『元気だった?』
『……うん、まあ』
『あのね、あなたにまた、お願いがあるの』
『……何?』
『この写真のおばあちゃん、見た事ない?』
和美は茶々に写真を見せた。『知ってるよ』の答えを期待していたのだが、『……知らない』と言われた。
『えー? 本当に知らない?』
『……うん』
困った。当てが外れた。ショックだった。茶々なら知っていると思ったのに。しかし、茶々が悪いわけではない。知らなくて当然だ。ただ、ショックだった。
そんな和美を見ていた茶々が、ゆっくりと口を開いた。
『……もしかしたら、あの人なら知ってるかも』
『あの人?』
『……何でも知っているユウさんって人』
『何でも知ってるユウさん?』
『……ついてきて』
そう言って、茶々は歩き出した。しばらくすると、屋根の上で寝ている猫が見えた。その猫は、腹が白く背中が黒だった。野良猫のようである。
茶々はとんとんとんと屋根に上った。和美も続いていった。茶々が寝ているユウさんを起こし『……あの』と声をかけた。ユウさんは大きなあくびをして、『何かな?』と尋ねた。
『あのう、私の名前は和美です。このおばあちゃんのお家を捜しているんですが、ご存知ないですか?』
ユウさんは眠い目を擦って、老婆の写真をじっと見た。
『ああ、知ってるよ。これは、あそこのたばこ屋のばあさんだよ』
そう言って、ユウさんは右の前足で教えてくれた。和美はその家を確認すると『ありがとうございます!』と頭を下げ、急いで下に降りた。茶々もユウさんにお礼を言い、和美の後を追った。
「たばこ」と書かれた家に着くと、家の前をうろうろしている美奈子がいた。和美は彼女の足にしがみつくと「にゃあ」と鳴いた。
「な、なに?」
美奈子は和美を抱き上げた。そして、和美の首から提げてある初枝の写真を見て「お母さん!」と叫んだ。写真にはペンで「この女性をご存知の方はご連絡ください」と書いてあり、零美の店の住所と電話番号が添えてあった。
美奈子は慌てて電話をかけ、「今からすぐに行きます」と伝えた。和美は美奈子に抱えられたまま、来た道を戻った。
零美の店に着き、お茶を飲みながらお菓子を食べている初枝を見て、美奈子はやっと安心できた。美奈子と初枝は深々とお辞儀をして、何度もお礼を言って帰っていった。
後日、美奈子が高級キャットフードを三缶持ってきてくれた。和美は一個は自分のもの、後の二つは茶々とユウさんに持っていった。人助けの行動をしながら、和美の交友関係は広がっていくようである。
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