ある日の午後、零美は和美を抱っこして外に出た。いつも店の中で相談者と向き合うだけでは息が詰まる。たまにはこうして外に出て、お日様の光を浴びるのも良いものだ。そう思いながら、目を瞑って空を見上げた。
和美は腕の中で眠っている。最近は外に出ていることが多いから、きっと仲良しの猫が出来たのだろう。体は猫でも、心は我が子の和美だ。同年代の子どもたちのように幼稚園には行けないが、娘が日々楽しく暮らせているだろうと想像して穏やかな気持ちだった。
午後の住宅街はとても静かだ。夕方になれば通勤通学の人たちが帰ってくるが、その時間にはまだ早い。街を独り占めしているかのような気分になる。
国道に面した大きな通りに出ると、たくさんの車が走っている。信号機のところには、小さな花瓶に花が何本かあった。誰かがいつも新しいものを供えているのだろう。
車社会につきものな交通事故は、今も日本のどこかで起きているに違いない。零美は手を合わせ、犠牲者の冥福を祈った。
ふと歩道橋を見上げると、男性が一人立っていた。下を走る車を眺めている目は、どこか寂し気で危なっかしい。「まさか!」と思った零美は、急いで階段を駆け上った。
灰色の背広にネクタイを締めた彼は、一見すると会社員のように見える。手には革製の鞄を持っている。その鞄を下に置き、彼が両手を欄干にかけたその時、「待って!」と零美は声をかけた。
「あの、失礼ですが、もしかして飛び降りようとされたんじゃないですか?」
「えっ? いや、あの……」
図星だったのか、男性の口から言葉が続かない。彼の顔は血の気が引いて真っ青だ。
「とにかく、ここは危ないから私の店に行きましょう。そこでお話を伺わせてください」
「お店、ですか?」
「私は、この近くで占いのお店をしている加賀美零美という者です。あなたのように深刻な悩みを抱えた方のお話をよく聞いていますので、少しはお役に立てるかも知れません」
「そうですか……」
「とにかく、ここは危ないです。もう一度死のうとしている若い男性が、そこにうずくまっていますから」
「えっ? もう一度死ぬって、じゃあその人は……」
「あなたの体を借りようとしていますから、さあ早く!」
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零美は彼を連れて、店に戻ってきた。まだ眠っている和美は、奥の部屋に連れて行った。零美は男性を席に座らせると、コーヒーを二つ用意して自分も席に着いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
彼はお辞儀をした後、黙ったまま、湯気が立ち上るコーヒーカップを見つめている。しばらくして、手に持って一口飲んだ。小声で「おいしい」と呟き、うんうんと頷いた。その後、少し心が落ち着いたのか、閉ざしていた重い口を開いた。
「私の名前は倉田幹夫と言います。助けていただいてありがとうございます」
「どうして死のうとなさったんですか?」
倉田は「うーん」と唸った後、事の子細を話し始めた。
「私には、結婚十年目の妻と五歳の娘がおりました。ある日、三人でドライブに出かけたのですが、連日残業が続いて寝不足だった私は、つい居眠り運転をしてしまって、崖から車ごと転落したのです」
「崖から……」
「運転していた私だけは助かったのですが、妻と娘は残念ながら……」
そう言って倉田は口をつぐみ、下を向いて唾を飲み込んだ。静寂が店内を襲う。重苦しい雰囲気が漂っている。
「それで、ご自身も死のうとされたわけですね?」
「妻と娘が死んだのは私のせいです。私が居眠り運転さえしなければ……」
「そうですか……」
彼にとって、妻と娘は自分の命より大切だったに違いない。自分の命に代えても家族を守ると思っていたのだろう。しかし実際は、その逆になってしまった。
家族はある意味、彼の生きる意味だったのだ。それを失った今、生きる理由がなくなったと言える。
零美自身、和美を事故で亡くした時は、生きているのが嫌だった。死んでしまいたかった。それでも死なずに済んだのは、和彦がいてくれたからだ。しかし、彼にはそういう人がいない。
「辛いと思いますが、時が心を癒してくれます。私も、五歳の娘を交通事故で亡くした時は、あなたと同じように死にたいと思っていました」
「先生も、五歳の娘さんを?」
「はい。ですから、少しはあなたの気持ちが理解出来ます」
「そうですか……」
自分と同じような人がここにいた。そうわかっただけで、倉田の心は少し楽になった。
「誰もあなたを責めません。ただ、あなた自身が責め続けているのです。それはおそらく、奥様や娘さんの望むことではないでしょう」
「ああ……」
閉じられた彼の目から、涙が頬を伝って落ちた。きっと彼は、泣く事を我慢していたに違いない。それを解放してあげるのが零美の仕事である。
「どうか、ご自分を許してあげてください。それが出来るのはあなただけです」
その時、零美の胸に言葉が飛び込んできた。
「パパ、もう苦しまないでください。私と留菜のために、もう苦しむのはやめてください」
「えっ? 里美?」
「パパ、私の分まで生きてね」
「留菜……」
倉田はテーブルに突っ伏して号泣した。時折嗚咽しながら、目の前に零美がいても構わずに大声を出した。店内の静寂さは破られたが、温かい空気が充満しているのが心地良かった。
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