三十五歳フリーターで独身の橋田保敏は、あるアイドルに夢中だった。川口みのりは、橋田よりも十七歳年下の十八歳。まだまだ売れない彼女のために、橋田は今日もライブに来ていた。
「いつも応援、ありがとうございます」
「こ、これ、みのりちゃんが好きかなって思って……」
「わあ、かわいい!」
橋田が渡したのは、可愛らしいクマの人形がついたキーホルダーだった。
「かばんにつけてね」
「ありがとう! 大事にします」
にっこり笑って握手してくれたみのりに、橋田はもうメロメロだった。「今日は手を洗わない」と心に決めて、満足して帰っていった。
「今日は疲れ様でしたー!」
グループのメンバーやスタッフたちに挨拶して、みのりは会場を後にした。もう外は真っ暗。人通りも少ない。「早く帰ってお風呂に入ろう」と思いながら、足早に駅に向かった。
しばらく進むと、前方に赤い車が停まっている。通り過ぎようとすると、窓が開いて声をかけられた。
「みのりちゃん、送っていこうか?」
それは、先月までみのりたちのマネージャーをしていた若林悟郎だった。同じ千葉出身ということもあり、みのりとは割と仲が良かった。「ありがとうございます」とお辞儀をして、後部座席に乗り込んだ。
若林は「これ、俺のおごり」と言って、紙コップに入ったココアを渡した。みのりは「いただきます」と言って、何の迷いもなくぐいっと飲み込んだ。体が温まり、車の振動が心地良い。ライブで疲れていたこともあり、みのりは少し眠くなってきた。
みのりが目を覚ますと、目の前には若林がいた。周りを見回すと、六畳ほどの部屋にベッドとテレビが置いてある。自分の部屋ではない。
「ここは?」
「俺の家」
「えっ?」
「今日からお前は俺と暮らす」
「どうして? なんで?」
若林はみのりの質問に答えず、彼女のバッグから携帯電話を取り出して電源を切った。
「電話は俺が預かる」
「えっ? い、嫌っ……。ねえ、帰して。家に帰してよ!」
若林は何も答えず、みのりの顔をじっと見ていた。
ライブの日から三日後、橋田は零美の店に現れた。少し小太りで、薄くなりかけた頭髪を帽子で隠し、黒縁の大きなメガネをかけ、大きなリュックを背負っている。
そんな橋田を見て、「オタクの人、かな?」と心の中で思いながら、零美は「いらっしゃいませ。鑑定依頼の方ですか?」と声をかけた。
「い、いえ……鑑定と言うか……、あの……相談に……」
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女性と話すのは得意ではない橋田のことを察して、「わかりました。中へどうぞ」と笑顔で中に招き入れた。
「今日は何か、気になることでもありますか?」
「あ、あの……。先生は、特殊な能力があるって聞いたんですけど……」
「特殊、ですか?」
「見えないものが視えるとか……」
「あっ……。まあ、そうですね」
「だったら、人が亡くなっているかどうかもわかりますか?」
「えっ?」
「ある人が、殺されたかも知れないんです」
「殺された?」
橋田の真剣な表情から、冗談ではなさそうだ。
「どうして殺されたかもと思うんですか?」
「動かないんです」
「動かない?」
「三日前から、同じ場所にずっと留まっているんです」
「何が?」
「ある女性です。そこは自宅ではないし、実家でもありません」
「どうしてわかるんですか?」
「あっ!」
橋田は「どうしてわかるのか」と聞かれて、思わず「あっ!」と声が出てしまった。零美は、単純に不思議だったから聞いただけだった。もしかしたらこの人は、特殊な能力の持ち主で、などとも考えたりした。
しかし橋田は違った。彼には、後ろめたいことがあったからである。不思議そうにじっと顔を見つめる零美。少し悩んだ挙句、人命には変えられないと思った橋田は、正直に話すことにした。
「実は……。僕は、アイドルの追っかけをしていまして。彼女のことが好きすぎて、彼女に贈ったプレゼントに、GPS発信機を隠していたんです」
「GPS発信機……」
「彼女がどこに居るかを、いつも把握したいと思いまして。それで、それを贈ったその日の夜から、ずっと同じ場所に留まっているので、もしかしたら監禁されているのか、あるいはもう、殺されたのかもと思って……」
橋田の顔は緊張で強張っていた。握りしめられた両方の拳が微かに震えている。ストーカー行為を咎められるよりも、彼女の命を最優先に考えた橋田。その勇気に何とか応えなくてはと零美は思った。
「わかりました。あなたの行為が問題にならないよう、私が霊視で捜したことにしましょう」
「えっ、本当ですか? ありがとうございます」
橋田は、頭をテーブルにつけて、これ以上ないくらいの感謝の意を表した。
「では、その人のお名前と、発信機が示す位置を教えてください。私の知り合いの刑事さんに連絡して向かってもらいますから」
「はい」
その後、零美は自分が霊視で見つけたことにして、川崎刑事に連絡して現場に行ってもらった。そこは、千葉にある若林の実家で、両親は既に他界し、若林が一人で住んでいた。
川崎刑事と二人の捜査員は、その家にいたみのりを保護。そして、一緒にいた若林を誘拐の容疑で逮捕した。
幸い、みのりに暴行を加えられた形跡はなかった。その後の警察の調べで若林は、一方的に好きだったみのりと、ただ一緒に居たかったと供述した。
数日後、みのりは元気にライブのステージに立っていた。その姿を、橋田は感無量の思いで見つめていた。
「応援、ありがとうございます!」
「あ、あの……。この前のやつとこれを、交換してくれませんか?」
「わあ! 猫ちゃんだ! 私、猫が大好きなんです! ありがとうございます!」
クマの人形を受け取った橋田は、急いで会場を出た後、公園のごみ箱に投げ捨てた。橋田がみのりに渡した新しい人形には、もうGPS発信機は入っていない。
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