小学校のマラソン大会。父母たちが学校で、子どもたちの到着を待っていると、一番に戻ってくる子どもの姿が見えた。「恵梨香だ!」工藤優一が妻の美佐代に言った。同級生たちの中で、人一倍体の小さな恵梨香が一着だった。
「頑張ったね、恵梨香!」
「はあはあはあ……。ありがとう」
優一の労いの言葉に、息を切らせながら笑顔で答えた。小さな頃から走るのが好きだった恵梨香は、この頃から将来の夢を口にするようになった。
「私、いつかオリンピックに行きたい!」
「行けるさ。きっと行ける」
優一は、娘の夢の実現のため、出来るだけ練習に付き合った。何の取柄もなく、平凡な会社員だった優一は、娘の夢の実現が自分の夢になった。
恵梨香は、強い陸上部がある中学に進み、そこでも実力を発揮した。優一は、娘のためにスポーツマッサージを学び、毎晩恵梨香の体のケアをした。
中学総体で優勝した恵梨香は、高校陸上の強豪校にスカウトされて進学。一年生から駅伝のメンバーに選ばれた。個人においても毎年優勝を重ね、大学は名伯楽のいる東都女子大学に進学した。
「恵梨香、お父さんはいつでも応援しているからね」
「ありがとう」
優一は、恵梨香の出場する大会には必ず応援に行った。沿道から声をかけ、「頑張れ、もう少しだ」と娘を鼓舞した。思春期の頃には、その姿が恥ずかしいと思ったこともあった。
「もう、恥ずかしいから応援に来ないで!」
「ごめん。もう目立たないようにするよ」
そう言いながら、変装した格好が却って目立っている。「頑張れー! 恵梨香―!」どんなに変装していても、人一倍大きく叫ぶその声は、どこに居てもすぐにわかった。誰にどう思われても変わらずに応援する。父のその愚直さに、学ぶことも多かった。
父と二人三脚で目指したオリンピックへの道。それがもうすぐ実現しようとしている。次期オリンピック代表選手選考を前に、恵梨香は零美の店を訪ねてきた。
「先生、今日はよろしくお願いします」
「工藤さん。こちらこそよろしくお願いします」
オリンピック有力選手として、メディアにも度々取り上げられていた恵梨香のことは、零美もよく知っていた。次の大会で好成績で優勝すれば、代表に選ばれることになる。その前に、自分の未来を占ってほしくて来たのだ。
「工藤さんはかなり強運の持ち主ですよ」
「そうですか!」
「オリンピックに行くためには、実力と共に運が必要です。いくら実力があっても、大事な時に発揮できない人もいますからね」
「はい。そういう選手はたくさん知っています」
恵梨香は、オリンピック代表になれる力があるのに、怪我などの理由で実力を発揮できなかった先輩たちをたくさん見てきた。だからこそ、自分もそうなるかも知れないという不安が常にあったのである。
「強運な分、孤独性も強いです。でも、アスリートは誰しもが孤独です。本番では自分一人で戦うわけですから。工藤さんは、孤独に強い人だと言えます」
「ありがとうございます」
「大会当日は、結果が形となってあらわれる日ですから、きっと願い通りになると思いますよ」
「そうですか。良かった」
恵梨香は、体が熱くなるのを感じた。零美の言葉には力がある。言霊だ。きっと結果は出せる。そう思えた。
迎えた代表選考の大会当日。スタート地点に並ぶ恵梨香の心は、不思議と落ち着いていた。集中している。そして、鳴り響く号砲と共に、一斉に走り出した。
「頑張れ、恵梨香!」
優一の言葉は恵梨香には届かない。真っ直ぐに前を向き、ゴールだけを見つめている。優一は恵梨香と並走した。
「給水所だ。うまく取れよ」
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優一の心配をよそに、恵梨香はしっかりとボトルを掴んだ。「よしっ」と優一は思わず微笑んだ。
優一の姿は見えないが、一緒に走っているかのように恵梨香には感じられた。「お父さん!」優一を思い、恵梨香の胸は熱くなった。まるで、すぐ横に父がいるかのように思えてならなかった。
「負けられない!」
三十五キロ付近で、先頭を走っていたライバル選手を抜いた。足が軽い。誰かが後ろから押してくれているかのように、体が前に進んでいく。
「お父さん、ありがとう!」
恵梨香の目から、自然と涙が流れていた。子どもの頃から自分の夢を応援してくれた、父の姿が思い出される。父のためにも、絶対に勝つ。恵梨香は更にギアを上げた。
そして見えてきたゴールテープ。ゴールテープを切ることが出来るのは、一番の選手だけである。振り返っても誰もいない。後は記録だけ。恵梨香は力の限りを尽くしてゴールを目指した。
「やったー!」
恵梨香は優勝した。記録も、陸連が定めたタイムを上回っていた。監督やコーチが祝福する中、恵梨香は最愛の人の元へ向かった。
「やったよ!」
「おめでとう」
母の美佐代だ。そして、母の胸には、半年前に亡くなった父の遺影があった。
「お父さん!」
恵梨香は、遺影に抱きついて泣いた。自分を誰よりも愛してくれた父に、オリンピック代表に決まった姿を見せられなかったことが悔しくて、声を上げて泣いた。
「恵梨香、よく頑張ったね。おめでとう」
優一は、恵梨香の背中を軽く撫ぜた後、思いを果たしたかの如く、すーっと天上に上っていった。青い空は、どこまでも続いていた。
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