第94話「亡くなった夫に謝りたい妻」

 古い家が立ち並ぶ、閑静な住宅街。その外れの方にある一軒家で、三村和夫と幸子夫妻は暮らしていた。八十八歳の和夫を、七十八歳の幸子が世話をする老老介護の世帯である。

 長い間、医師として僻地での地域医療に携わってきた和夫は、春の叙勲を受けたほどに人々からの信頼が厚かった。幸子も、看護師として妻として、夫を支えてきた。八十歳で医師を辞めた後は、都内の自宅で静かに暮らしてきたのだ。

 仕事を辞めてからの和夫は、一日中家にいることが多かった。仕事を辞めたら、趣味のゴルフに打ち込めると思っていたのだが、めまいやふらつきなどがして車の運転を辞めてからは、ゴルフに行かなくなった。

 ゴルフの他に趣味がなかった和夫は、一日中テレビを眺めてぼーっとすることが多くなった。時折幸子が覗くと、リクライニングチェアーでいびきをかいている。

 交友関係が広くないため、友人が訪ねてくることもなく、こちらから出かけていくこともなかった。めまいがすると言って、横になることが多くなり、足がだんだんと細くなっていった。

「腰が痛い」と言うので、幸子が度々さすったりする。じっとして歩かない足は、むくんで象のようにパンパンに膨れていた。段々と歩くこともままならなくなり、元々無口だった和夫は言葉が出なくなっていった。

「お母さん、私も手伝うからね」
「いいよ。あんたは子どもたちが大変なんだから」

 一人娘の咲子が神奈川に住んでいる。時々、和夫の入浴の手伝いや料理を作りにきてくれる。しかし、中学三年生の娘の塾や、中学一年生の息子の部活の送迎などがあって忙しい。自分が元気なうちは、娘にあまり負担をかけたくないというのが幸子の本音なのだ。

 一番神経を使うのが食べ物だった。喉が通りづらくなったので、固形物などは小さく刻んで食べさせる。喉につかえてしまい、窒息してしまうのが怖いのである。

 そんな日々を送っている中、和夫がポツリと呟いた。「もう、死にたい……」と。

「何言ってるの、お父さん。まだまだ生きてちょうだい。元気になって、一緒に旅行に行きましょうね」

 旅行に行くなんて無理に決まっている。そんなことは百も承知だ。でも、一日でも長く一緒にいたい。今まで家族のために一生懸命働いて、人並み以上の暮らしをさせてくれた。

 その恩返しを何もしていない。そして何よりも、「私を一人にしないで」というのが、幸子の偽らざる願いだった。

 ところが、運命というのは何とも非情なものだ。あんなに注意していたのに、喉に詰まらせてしまった和夫は、帰らぬ人となってしまった。

 慌ただしく葬儀を終え、四十九日も済ませた頃、幸子の胸にようやく悲しみが押し寄せてきた。人は最愛の人を突然に失うと、意外に泣けないものである。

「亡くなった人と話が出来るんだって。お父さんのことを教えてもらったらどう?」

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 毎日塞ぎ込むようになった母を心配した咲子は、噂に聞いていた零美の店に行くように勧めた。自宅から近いこともあり、娘の言うとおりに行ってみることにした。

「この度は、お世話になります」
「お待ちしておりました。どうぞ中へお入りください」

 丁寧にお辞儀をする幸子の腰は曲がっておらず、背筋がぴんと伸びている。零美には、とても八十に近い老人に見えなかった。

「三村さんのお知りになりたいことは何ですか?」
「実は最近、長年連れ添った主人を亡くしまして……」
「そうでしたか……。それはお悔やみ申し上げます」

 零美は、神妙な面持ちで頭を下げた。

「それで、先生は亡くなった方とお話が出来るとお聞きしましたので、私から夫に謝罪したいのです」
「謝罪、ですか?」
「はい。私の不注意で、夫を死なせてしまったものですから、恨んでいるかも知れません」
「そうですか。誰とでも話が出来るわけではありませんので、上手くいくかどうかわかりませんが、やってみます。ご主人のお名前は?」
「三村和夫です」

 零美は目を瞑って、和夫に呼び掛けてみた。いつもなら、亡くなった人の方から零美の前に現れる。そのため、実際に呼び掛けたとしても、現れてくれるかどうかは自信がなかったのだ。

 しばらく時間が過ぎていった後、幸子の横に和夫が現れた。とても穏やかな顔で元気そうに視える。

「今、奥様の左横にいらっしゃいます」
「えっ? 本当ですか?」

 慌てて首を横に向けるが、幸子には何も見えない。

「とても穏やかなお顔で、元気そうですよ」
「そうですか。それは良かった。では、私から謝らせてください。お父さん、本当にごめんなさい。私が注意していれば死ななくて良かったのにね。本当にごめんなさい。許してね」

 幸子は、見えない和夫に向かって、大粒の涙を零して謝った。零美も思わず、目頭が熱くなった。しかし、零美が聞いた和夫の返答は意外なものだった。和夫の言葉を、一言一句そのまま幸子に伝えた。

「謝る必要なんてないよ。それどころか、僕は君に感謝したいぐらいなんだよ」
「感謝? どうして?」

 不思議に思う幸子に、零美は続けて言った。

「僕はね。生きている間、ずっと苦しかった。足は痛い、腰は痛い、肩は痛い、首は痛い、背中は痛い、体中が痛くてたまらなかった。だから、早く死にたいと思っていたんだ」
「……」
「でも、体を動かせないから自分で死ぬことも出来ない。それがたまたま、喉につっかえてしまってね。あの時は苦しかったけど、すぐに楽になった。今はもう、ほら、この通り。体がとても軽いんだ。君のお陰さ。本当にありがとう」
「お父さん……」

 恨まれても仕方がないと思っていた夫から告げられた、意外な感謝の言葉に、幸子は声を上げてわんわん泣いた。その幸子の肩を、後ろから優しく抱きかかえる和夫の姿が、零美は格好良く思えた。久しぶりに、店内は温かい空気で満たされていた。

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投稿日:2019年2月14日 更新日:

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