閑静な住宅街。ここは古びた二階建てのアパートの一室。時計の針は深夜二時を指している。住んでいるのは四十歳の室井悟郎と、彼の妻で三十九歳の睦美、そして一人娘で八歳の加美の三人。文字通り、川の字で仲良く眠りに就いている。
つい、寝る前に麦茶を飲み過ぎていた加美は、トイレに行きたくて目を覚ました。むくりと起き上がり、眠い目をこすったところで何かが見えた。誰かがいる。
その誰かは、六畳の寝室の隅に置いてあるタンスの引き出しを開けていた。加美は思い切り「ドロボーっ!」と叫び、隣で寝ている父を起こした。泥棒は「わーーーーっ!」と叫んだ後、「ごめんなさい。警察だけは許してください」と土下座をして謝った。
包丁を警戒して枕を胸に当てていた悟郎は、泥棒が刃物を持っていないことを確認し、ほっと安堵の息を漏らした。よく見れば、気弱そうな若い男。柔道有段者の悟郎なら負ける相手ではない。
「よくこんなボロアパートに泥棒に入ろうと思ったね」と、悟郎は豪快に笑った。睦美も加美もつられて笑っていた。男は頭をかいて苦笑いを浮かべながら「すいません」と何度も謝った。
こんな家に泥棒に入るぐらいだから、よほど困っているのだろう。悟郎自身、若い頃は職を転々として、お金がない毎日を送っていた。それこそ、彼のように泥棒でもしようかと何度も考えたことがあった。
「良かったら、どうして泥棒しようと思ったのか聞かせてくれよ」
「えっ? あっ、はい。実は、住み込みで働いていたのですが、勤め先が倒産してしまって……。それで、住む所がなくなってネットカフェを転々としていたんですが、お金が底をついてしまい、つい……」
「そうか、それは気の毒だったな」
自身が苦労してきたこともあり、悟郎はこういう話に弱い。もうすでに、目が潤んでいる。それを見て、悟郎の性格を知っている睦美は、笑いそうになるのを必死で堪えていた。
「実家は遠いのかい?」
「青森です」
「両親には知らせたのか?」
「心配かけたくないので、まだ……」
「青森まではいくらかかる? 二万円ぐらいかな?」
「……たぶん」
悟郎は立ち上がり、本棚の大きな辞典を取り出した。それを開くと、中は空洞になっていて、白い封筒が入っていた。
「ここに五万円ある。これで青森に帰って、もう一回人生やり直せよ」
「えっ? 良いんですか?」
「俺も苦しかった時に、いろんな人から助けてもらった。だから、困っている人は放っておけないんだよ」
そう言って、悟郎は封筒を彼に渡した。
「頑張ってな!」
「はい。本当にありがとうございます……」
男は肩を震わせて泣いた。ポンポンと肩を叩く悟郎の目からも涙が零れていた。その様子を見ていた加美は、睦美と顔を見合わせて笑いを堪えていた。
「もし君が出世したら、倍にして返してね。期待しないで待ってるから」
「ありがとうございます。必ずお返しします」
木原壮一と名乗る男は、青森の実家の住所と電話番号を紙に書いて悟郎に渡した。「お宅様のお名前と連絡先を教えてください」と木原に言われ、悟郎もまた紙に書いて彼に渡した。
帰り際、睦美が「お腹空いてるでしょ?」と言って、バナナとりんごを袋に入れて木原に手渡した。「ありがとうございます」と深々とお辞儀をした彼は、なかなか頭を上げなかった。
「じゃあな。もう泥棒するなよ」
「はい」
何度も何度も頭を下げて出て行った木原を、悟郎たちは手を振って見送った。玄関の鍵を閉め、布団に潜った悟郎は睦美に言った。
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「やっぱり、五万じゃなくて三万でも良かったかな?」
「そうねえ。でも、倍にしてくれるって言うんだから良いんじゃない?」
「倍かあ。五万が十万になれば良いなあ」
夫婦でそんな会話をしている横で、加美はもう寝息を立てていた。
それから十年後のこと。悟郎は零美の店に相談に訪れた。自営の仕事が行き詰まり、資金に困窮していたからだ。
「先生、私の金運はどうでしょうか?」
「そうですねえ。あなたの場合、人生に波がありますよね」
「大波ばっかりです」
「それでも何とかやってこれたのは、ご先祖が徳を積んでくださったからでしょうね」
「そうなんですか」
「はい。人のために尽くして亡くなった方が、あなたを守ってくださっているのだと思います」
「なるほど」
悟郎は、自分の人生を振り返ってみた。確かに、自分ではどうしようもない時、助けてくれる人が必ず現れた。だからこそ、自分も困っている人は助けてあげたいと思っている。
「今回は特に、あと二百五十万が必要で。でも、自分が考えられる手は尽くしたのですが、もうこれ以上はどうしたら良いか……」
「そうですねえ。でも、私が受けるイメージでは、もうすぐあなたを助けてくれる人が現れる気がするんですが……」
「本当ですか?」
「はい。信じるものは救われるって言うじゃないですか」
「じゃあ、信じます!」
何だか勇気が湧いてきた。相談に来て良かったと思った。現実は厳しい状況だが、明るい光が見えてきた気がした。悟郎は何度もお礼を言って、帰途に着いた。
自宅に戻ると、奥から何やら男の笑い声が聞こえてきた。「誰だろう?」と思いながら中に入ると、どこかで見覚えのある男だった。
「あれ? 君は確か……」
「ご主人、ご無沙汰しております。青森の木原です」
「おー、懐かしいなあ。元気だったかい?」
「ありがとうございます」
十年前に泥棒に入った木原だった。以前よりも日に焼けており、体も逞しくなっていた。
「倍にして返してくれるのかな?」
笑いながら悟郎が尋ねると、睦美が横から口を挟んだ。
「お父さん、倍どころじゃないわよ。ほら」
そう言って、睦美は白い紙袋を見せた。見ると、中には帯封の札束が重なっていた。
「こ、こ、これは?」
驚いて言葉が出てこない悟郎に、木原が笑って答えた。
「約束通り、お返しに上がりました。あの時は五万円を頂きましたが、百倍にして返します」
「百倍って……。五百万?」
「はい」
「そんなお金、どうして?」
「あの時、皆さんが助けてくれなかったら、私の人生はとんでもないものになっていたはずです。本当に感謝しています。その気持ちを伝えたくて、十年間一生懸命に働きました。」
「そ、そうなのかい? 今は何の仕事を?」
「親父と一緒にりんご農家をしています。これ、うちのりんごです。食べてください」
そう言って、カバンの中から赤いりんごを数個取り出した。悟郎はそのうちの一個を取り、手で拭いて皮ごとかぶりついた。
「うまい!」
「ありがとうございます」
悟郎は木原を抱きしめた。「ありがとう……」と何度も繰り返す悟郎の目からは、温かいものが流れていた。それを見ていた睦美と加美は、顔を見合わせて笑った。
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