東京、秋葉原。様々な言語が飛び交うこの街は、世界的に有名な日本を代表する電気街。高音や低音、いろいろな音が飛び交っており、感受性が敏感過ぎる沙也加の心を悩ませる。
まだ五月だと言うのに、これでもかと照りつけるお天道様のお陰で、背中がじんわりと汗ばんでくる。今朝の冷え込みから上着を羽織ってきたのに、今は脇に抱えて鬱陶(うっとう)しい。
「伊藤さん、ちょっと喫茶店で休んでいきませんか?」
一つ年下の橋本悟郎が、額の汗をぬぐいながら懇願している。それほど太っていないのに汗かきなのは体質なのか。
「そうね、私も疲れちゃった」
人混みが嫌いなのに、この街が営業の担当エリアになった沙也加は、自社商品を置いてもらっている代理店を回る。同じく代理店担当の橋本は、沙也加が気軽に話せる数少ない男性社員だ。
「ここなんかどうですか?」
「良いわね、ここにしましょう」
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外から中を覗くと、営業マンらしき人たちが何人か見えた。そりゃそうだ、この暑さじゃみんなやってられないよ。心の中で自己正当化しながら、奥の空いたテーブルに向かう。
「僕はアイスコーヒーで。伊藤さんは?」
「私はホットコーヒーにする」
冷たいものを飲むとお腹を壊しやすい沙也加は、夏でも出来るだけホットを注文する。自動販売機ではホットが買えないのが悩ましい。
「伊藤さん、あれ観ました? コナンの新作」
「もちろん観たわよ。すごかったね」
沙也加が橋本と気が合うのは、映画が好きという共通点があるからだった。洋画でも邦画でもアニメでも、話題の映画はとりあえず観ておきたい。そして感想を誰かに言いたい。橋本はその相手として理想的な存在だった。
「ほんと、あれは笑っちゃいますよね。ははは」
眼鏡の奥の瞳を細めて笑う橋本につられて、沙也加もふふふと笑ってしまう。男性不信になりかけていた沙也加の心を開かせるのは、この男ぐらいかも知れない。
「あれ? あの人……」
橋本が目で合図をした。その視線の先を辿ると、あっと言う声が思わず出そうになり、慌てて両手で口を押さえた。
「あの人、田中さんじゃないですか? そうすると、前に座っているのは噂の社長令嬢ですかね……」
少しずつ両手を上にずらし、顔を覆(おお)って指の隙間から覗いてみる。間違いない。あの人だ。こんな所で会うなんて。偶然過ぎる……。
心臓の鼓動が速くなる。苦しい。息苦しくて堪(たま)らない。沙也加は両手で顔を覆ったまま、突っ伏すように下を向いた。
「伊藤さん、大丈夫ですか?」
沙也加には、橋本の言葉の意味がわかっていた。田中賢治は沙也加の元同僚で、元婚約者でもある。二人は結婚するものだと、社内でも公然の噂になっていた。
しかし、ある日突然、沙也加は賢治から別れを切り出されてしまう。美人の社長令嬢に見初められた賢治は、会社も沙也加も裏切ってライバル会社に移ったのだ。
美男美女カップルの破局は、瞬く間に社内に広まる事となった。橋本も当然その事実を知っており、やけ酒にも付き合ってくれた。
さっきまでの陽気な会話は中断されたまま、二人の間には無言の空気が漂う。その緊張感を嫌ってか、橋本はわざと音を立ててストローで啜(すす)っている。
片(かた)や、向かい合って笑顔で話す美男美女カップル。片(かた)や、どちらも下を向いたまま沈黙している沙也加と橋本。明と暗のコントラストが痛々しい。
しばらくして、ガタッという音と共に席を立ちあがる賢治たち。そのまま沙也加に気づく事なく店を後にした。それを見届けた橋本が「行きましたよ、伊藤さん」と声をかける。
その言葉を信じて、恐る恐る顔を上げる沙也加。誰もいなくなったテーブルを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。
飲みかけのホットコーヒーを口に運び、ずずずっと小さな音を立てて飲む。それを見て、不安そうな顔から笑顔に変わった橋本。何も言わずに待っていてくれた事が沙也加には嬉しかった。
すると突然、沙也加のスマートフォンにメッセージが届いた。確認すると、送信してきたのは目の前の橋本だった。
【僕じゃだめですか?】
ん?と思って橋本を見ると、下を向いたままスマートフォンを操作している。
【あの人の代わり、僕じゃだめですか?】
再び送ってきたメッセージに続けて、三通目が届いた。
【僕が伊藤さんを守ります】
さらに届いた四通目。
【僕の事、嫌いですか?】
確信を突いた質問にしばらくじっと考えた後、沙也加は返信メッセージを送った。
【嫌いじゃないかもよ】
それに続けて、沙也加は二通目を送る。
【じゃあ、付き合ってみる?】
想像もしていなかった返信に、橋本の細い目が大きく開かれた。
【本当ですか? 僕、伊藤さんの事が前から好きだったんです】
見た目はそれほどでもないけど、真面目で正直な所が信頼できる。こういう男性が良いかな。少しは彼の事、前から気にしていたのかも知れない。沙也加はそう思った。
【じゃあ、今度一緒に、映画観に行こうよ】
それを確認した橋本は顔を上げて「はい、喜んで!」と大きな声を出した。周りの視線が集まってくる。沙也加は恥ずかしさのあまり「ここは居酒屋か!」と突っ込んで笑った。
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