「ただいま」
誰もいない部屋に、習慣的に口から出た言葉。受け取る相手もなく、暗い室内に彷徨(さまよ)っている。玄関にあるのは、佳代子の靴だけ。昨日まで確かにあった稔(みのる)の靴は、その痕跡だけを残して綺麗になくなっていた。
「だよね」
その理由を一番知っているのは私じゃないの。そう自分に突っ込みを入れて、目を細めて笑ってみせる。寂しさに押しつぶされそうな心を、必死に堪(こら)える自分が健気(けなげ)に思えた。
「お風呂、入ろうっかな」
独り言が癖(くせ)になっているわけじゃない。言葉を投げかけると、受け止めてくれる相手がいない現実に、まだ慣れていないからだった。それはまだ始まったばかりで、いつ終わるのか彼女にはわからない。
「今日はちょっと、ゴージャスにしようっと」
アロマキャンドルで灯(あか)りを灯(とも)し、入浴剤で泡風呂を作ってみる。気分はすっかり、ハリウッド女優だった。鏡で胸をチェック。両手で軽く揺らしてみる。見た目も良く、張りもある。
「まだまだイケるんじゃない?」
浴室の中で声が響く。それは、自分の体の中で、一番自信があるところ。稔が好きになってくれたところ。彼の手の感触が、なかなか忘れられないところ……。
「じゃあ、顔は、どうかな?」
コンタクトを外しているので、顔を鏡に近づけてみる。まじまじと見る自分の顔は、なんだか哀しそうに見えた。胸だけじゃない、顔だって自信はある。だけど、鏡に映るその顔は、好きじゃない顔だった。
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「泣くなよ、泣くなよ、泣くなよ……」
呪文のような言葉が、泣き声に変わっていく。
この部屋で稔と暮した日々が、頭の中で蘇(よみがえ)ってくる。彼の声、彼の匂い、彼の手の感触が、この部屋のあちこちに落ちている。耳元で囁(ささや)いた愛の言葉が、今も残って離れない。
「何で浮気するんだよー!」
信じていたのに……。あいつだけは私を裏切らないって、信じていたのに……。
「男なんて、どいつもこいつも同じだ!」
幼き日、母が泣きながら叫んだ言葉が蘇る。佳代子が十歳の頃、女を作って出て行った父。それ以来、女手一つで育ててくれた母。そんな母を喜ばせたくて、安心させたくて、真面目な男を選んだつもりだったのに……。
思い立ったように立ち上がった佳代子は、湯船の中に体を沈めてみる。泡の感触が心地良い。丁寧に、優しく抱きしめられる感覚。体から抜け出したむきだしの心の傷が、泡の粒子で修復されていく気がする。荒(すさ)んだ心が、少しずつ少しずつ、綺麗に磨かれていく感触。しばらくそのまま体を沈めた後、両手両足に力を入れて、天に伸びあがった。
振られたんじゃない、私が振ってやったんだ。
熱いシャワーを頭からかぶって、涙とともに悔しい気持ちを排水溝に流す。泡がとれて、生まれたままの姿が鏡に映る。上を向いた胸が、寂しそうに泣いている。あいつの手の感触を忘れられないでいる。
「可哀想だねえ……」
そう呟きながら、両手で軽く揺らしてみる。やっぱりまだ、あいつが好きなんだな。そう思いながら佳代子は、鏡に向かって笑顔を見せた。
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