帰れない夜

「大丈夫ですか、そんなに飲んで。体に悪いですよ」

 電話で呼び出された高橋健治(たかはしけんじ)が、カウンター席の右奥で酔いつぶれている本田千鶴(ほんだちづる)に声をかける。

「マスター、僕も同じので」

 雨に濡れたコートを脱いでネクタイを緩め、差し出された水割りを喉に流し込む。冷えた体に血液が巡り出す感覚を覚えた。ふと隣を見ると、千鶴が両腕を枕に頭を乗せ、こちらに顔を向けている。深紅の唇を突き出しているようにも見え、健治は思わず顔を背(そむ)けた。

「もう、結構飲んでいるんですか?」

 マスターに尋ねると、無言のまま笑顔で頷(うなず)いた。起きた勢いで落とす気がして、千鶴のグラスを遠ざけようとすると、悪戯(いたずら)っぽい甘えた声が聞こえてきた。

「飲んじゃだめだよ、高橋くん」
「えっ?」

 驚いて手を引っ込めると、寝ていると思っていた千鶴が顔を上げてにっこりと笑った。

「の、飲みませんよ。な、何言ってんですか」
「……さっき、私の唇、見てたでしょ? キスしたかったの?」
「えっ?」

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 どうぞとばかりに、真っ赤な唇を突き出す千鶴の肩を両手で抑え、「やめてください」と懇願する健治。千鶴は「冗談だって。ごめんね、頼まれても嫌だよね」と言って笑った。心臓が大きな音を立てている事に気づいた健治は、慌てて平静を装い話を切り出した。

「ところで、話ってなんですか?」
「えっ、話? 聞いてくれるの、私の話? ありがとうねー、私の話を聞いてくれるなんて、君しかいないよ」

 そう言って、泣きまねをする千鶴。こんな彼女を見るのは初めてだと健治は思った。新卒で入社して半年、二人は同じ部署だが、仕事の話以外はあまりした事がない。わからない事は丁寧に教えてくれるが、滅多に笑わず無表情が多い。整った顔立ちだからこそ、余計に近寄りがたさを感じていた。

「ねー、誰にも言わない? 会社の人に言わない?」

 甘えた声で聞かれ、潤んだ瞳を向けられては「はい、言いません」としか言えない。おまけに、両手で右手を包まれてしまっては、逃げられないと観念するしかなかった。

「私ね、振られちゃった……」
「えっ? あ、そ、そうですか……。そ、それは、何と言うか、あの……残念でしたね……」

 千鶴に黙ったまま凝視され、固まってしまう。「残念でしたね」が正しい表現なのかどうか、恋愛経験のない健治にはよくわからなかった。

「そう、残念なのよ、私。残念な人なのよー。そう、そうなの。やっぱり君は、わかってくれるなあ。私ね、君が入ってきてから、この子は良い子だなあーって、思ってたの。真面目で優しいーし、人の悪口も言わないしねー。ほんと、良い子だなーって、思ってたんだよー、私」

 呂律(ろれつ)が怪しい。相当酔っぱらっているようだ。健治はもともと女性に対し、苦手意識を持っている。三つ指をついて夫を迎える大和撫子(やまとなでしこ)タイプが理想なのに、そんな女性は今まで見た事がない。会社内でも、平気で乱暴な言葉を使う女性たちが嫌でたまらない。

 そんな中、決して感情を出す事なく、常に冷静に話す千鶴には尊敬の念を抱いていた。それは恋心とは違うものだったが、少なくても好意を持っていた事は確かだ。だからこそ、呂律が回らなくなるほど酔っている彼女を見て、少し戸惑いを感じている。

 彼女も感情を持った人間であり、こんなに乱れるほどに今回の失恋の痛手は大きかった。そんな手負(てお)いの女性にどう接したら良いのか。慰めの言葉も見つからず、ただ黙ってそばにいるしかなかった。

「ねえ高橋くん、歌、歌って。私の心が癒されるような歌、ね、お願い、歌って。マスター、良いでしょ?」

 マスターを見ると、口元に笑みを浮かべて頷いている。歌う事には自信があった高橋は、少しでも慰めになればと思い、一番得意な尾崎豊の歌を歌い始めた。すると、慌てた様子で千鶴に止められてしまった。

「これは……この歌はやめて……。あの人が好きだった歌なの、これ。ごめん、思い出すから、やめて……」

 高橋は気まずそうに、黙ってマイクを置いた。二人以外、客がいないこの店の空気が重くなる。

「ごめんねー。ほんと、歌えって言ったり、やめてって言ったり。面倒な女だよねえー。だから振られちゃうんだろうなー。どう思う、高橋くん?」
「えっ? それはどうかはわかりませんが、もうお店の迷惑だから帰りましょうよ」
「えー? 嫌だ、帰りたくないー。外はまだ、雨、降ってるでしょ? いや、傘はあるけどさー、帰ってもさー、誰もいないんだもん。それとも高橋くん、泊まってってくれるの? 慰めてくれるの、私を?」

 そう言って、酒臭い唇をつんと突き出して顔を近づけてくる。再び手を握って胸に触らせようとする。三十手前の淫靡(いんび)な色気を前に、高橋の体は固まったままだった。

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