次の角を曲がると、もうすぐ彼の家。この道を歩くのは何か月ぶりだろう。昔はよく、二人並んで歩いた。彼が右で春奈が左。傍(はた)から見れば、女性が車道側では逆だと思うだろうが、右利きの彼と左利きの彼女の場合、それが自然だった。
彼の手は冷たくて、春奈の手は暖かい。「あったかい手だね」って笑う時、彼の右頬にはえくぼが出来る。そのえくぼを見つけるのが彼女の楽しみだった。そんな過ぎた日の思い出を懐かしんで笑いたいのに、春奈の体は緊張でがちがちになっている。
地に足がつかず、空中を歩いているような感覚、思わず引き返したくなる衝動を覚えながらも、奥歯をぐっと噛みながら歩き続ける春奈。時折、どうしても足がすくんでしまい、立ち止まってしまう彼女を、夕方の家路を急ぐ高校生やサラリーマンが振り返る。
恥ずかしさのあまり、彼女の白い頬が紅色に染まる。それに気づくと、両手で頬を隠し、口を一文字に結び、両目をきゅっと閉じた。動き続ける街の風景の中で、彼女の時間だけが止まる。そして、自らの覚悟をもう一度確認しようと心に決めた。
Sponsered Link
彼と付き合って五年、それが今、終わりを告げようとしている。出会った頃は、あんなに優しかったのに。会うと必ず、愛してるよって言ってくれたのに。時が経つにつれ、それが当たり前ではなくなっていった。ちょっとしたボタンの掛け違いが、二人の距離を遠ざけた。
春奈の頭によぎる、半年前の出来事。彼女の目に飛び込んできたのは、ホテルに入る彼と髪の長い女の姿だった。真っ赤なドレスに深紅のルージュ、若く派手目な彼女の姿は、遠目から見ても輝いて見えた。ショックを引きずって入ったコンビニのトイレで見た自分の顔は、ずいぶんと老けて見えた。
それまでの春奈は、化粧なんて気にしてこなかった。だけど、今日だけは綺麗になりたい。こんなに綺麗だったのかと、あの人に思われたい。よりが戻らなくたっていい。ただ最後に、彼への思いを断ち切るために、最高の姿でさよならがしたい。
心の整理をつけ、彼の家へと向かう。階段を上り、二階の一番奥の部屋。何度も出入りしたはずのドアが、彼女によそよそしく思えて悔しかった。来る事を伝えていたせいか、インターホンを鳴らすとすぐにドアが開いた。懐かしい彼の顔が目の前にある。
嬉しいはずなのに、玄関で堂々と存在を主張している緋色(ひいろ)のハイヒールが邪魔をする。「元気だった?」「ああ……」「良かった」「うん……」よそよそしい会話が、二人の現在を物語っている。「これ、返すね」二人をつないできた銀色のカギを渡すと「あ、ありがと……」と一言。
彼の背中の奥にいるもう一人の女性の気配が、いたたまれない気持ちに拍車をかけて仕方がない。「……じゃあ、ね」顔を伏せたままそう言うと、春奈は早足でその場を離れた。少しでも遠くに行きたかった。後ろなんて振り向かない。振り向くもんか。
春奈の気持ちを助けるように、駅に向かうバスがちょうど停まっていた。こわばらせた顔を少し上に向けながら、バスに乗る。一番後ろの右隅に座ると、安堵と同時に視界がにじんできた。せっかく化粧してきたのに……。
『雨の中の女 神野 守 短編集 第1巻』amazonで販売中!
https://www.amazon.co.jp/dp/B07FYRKPL2/
Sponsered Link