芥川龍之介先生の書いた小説「二人の友」について考えてみたいと思います。この「二人の友」とは、森鴎外(もり・おうがい)先生が発表した小説の事です。「二人の友」の主人公「私」は、役人として東京から福岡県の小倉に赴任します。そこで二人の男性と交流します。
一人はF君です。F君は二十歳を過ぎた青年です。彼はドイツ語に自信があり、ドイツ語に造詣(ぞうけい)の深い「私」にドイツ語を習いたいとやってきます。もう一人は安國寺(あんこくじ)と言う若い僧侶です。毎日のように「私」のもとにやってきてドイツ語を学び、彼は仏教の根幹の思想「唯識論(ゆいしきろん)」を講義します。
森鷗外先生は東京大学医学部を卒業後に陸軍の軍医となり、空いた時間で小説を書いていました。小倉に赴任したのは1889年6月19日から1902年3月26日まで。1888年2月に結婚して1年半後に離婚していますので、この頃は独身でした。 鴎外先生が下宿で読書をしていますと、のちに第一高等学校のドイツ語教諭になる福間博が訪れます。「二人の友」の中のF君は福間博の事です。
芥川先生は、一高で福間先生からドイツ語を学びました。この頃はまだ「二人の友」は活字になっていなかったそうです。福間先生は背が低く、金縁(きんぶち)の眼鏡をかけ、かなり長い口ひげを蓄えていました。福間先生は冗談が好きだったので、生徒たちは皆、親しみを抱いていました。
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福間先生は、一学期のある時間に久米正雄(くめ・まさお)にこう言われました。「君にはこの言葉の意味がクメとれないんですか?」と。それに対し久米は「ええ、ちょっとわかりません。どう言う意味がフクマっているか」と、シャレで返しました。
福間先生は、芥川先生が二年か三年生の時に亡くなりました。その一週間か二週間か前に、今の恒藤恭(つねとう・きょう)、当時の、井川恭(いかわ・きょう)と一緒に、お見舞に行きました。福間先生はベッドに横になったまま「大分良い」と言いましたが、実際は大分悪かったようです。福間先生の葬式の導師になったのは、やはり鴎外先生の「二人の友」のうちの一人、「安国寺(あんこくじ)さん」です。
芥川先生は、この短い文章に「二人の友」と言う題をつけましたが、勿論、鴎外先生の「二人の友」を借用したと書いています。そして偶然、この文章の中にも、芥川先生の二人の友だちが登場します。久米正雄と井川恭です。福間先生は、井川恭にもこんな事を言っています。「そんな言葉がわからなくてはイカわ」と。「いかわ」と言うのは、「いかんわ」のシャレでしょうか?
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