一日中、閉じたままのカーテン。隙間から差し込んでいた陽(ひ)の光は消え、日没を知らせている。電気も点(つ)けず暗い部屋の隅で、桃香(ももか)は立ち上がる事も出来ずに膝を抱えていた。
目が覚めて、朝一番に確認した彼からのメッセージ。
「もう別れよう。さよなら」
余りにもあっけない幕切れだった。恋に奥手の桃香が、初めて本格的に付き合った彼。何をどうしたら良いかわからなくて、全てが手さぐりだった恋。恋に恋していた桃香の恋は終わった。
朝から何もする気が起きない。ベッドはぐちゃぐちゃ。着替える気力もない。朝はトースト、昼はカップラーメン。その残骸(ざんがい)が、テーブルの上に置かれたまま。喉が渇いて飲んだペットボトルのお茶も、飲みかけのまま転がっている。
閉め切った部屋。湿度が高いせいか、不快指数が上がる。冷蔵庫から出しては飲む、ビールの空き缶が増えていく。
「眼鏡をとると可愛いよ」
彼に言われて、コンタクトレンズに変えた。
「長い髪が好きなんだ」
そう言われて、髪の毛を伸ばした。
彼が望む事は、出来る限りその通りにした。愛する人の色に染まりたい女心だった。
「キスしていい?」
付き合い始めて半年、彼にそう言われた。真面目な両親の影響で、結婚するまで肉体関係は控えようと心に決めていたが、キスぐらいならと了承した。
「キスまでは良いよ。それから先はまだ……。ごめんね」
緊張してがちがちになりながら、初めてのキス。頭のてっぺんから足の先まで、体中に電気が走る。余りの高電圧で、ドロドロに溶けていく感覚。その後、アルコールに酔ったような感じがした。
二度目のキスも、少し抵抗があった。最初のキスをした後、本当に良かったのか、やめた方が良かったのか、いろいろと考えた桃香。親に黙って唇を許した事に、後ろめたさがあった。
でもやっぱり、望まれるまま、彼と唇を重ねる。再び味わう、全身が痺(しび)れる感覚。
三度目ともなると、何の抵抗もなくなった。自分と同じ年頃の人たちは当たり前のようにやっている。そんなに悪い事じゃない。それに、キスをすればするほど、彼の事が好きになる。愛されている実感がする。
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それからは、会うたびにキスをした。人が見ていても気にならなくなった。そこは二人だけの世界、誰も入れないし、誰にも邪魔させない。キスをするたびに桃香は、自分がどんどん綺麗になっていく気がした。
付き合い始めて一年が経ったある日、自分の部屋でキスをされた後、真剣な顔でこう言われた。
「もう、そろそろ……どうかな?」
「えっ?」
「いいだろ?」
そう言って、桃香をベッドに押し倒す。反射的に「いやー!」と大きな声が出た。その声に驚いて、彼は後ろに飛び退(の)いた。部屋の隅で怯(おび)える桃香の頭を優しく撫で、「ごめん」と謝る彼。気まずい雰囲気のまま部屋を出ていく。
彼が出て行った後、桃香は急に不安になった。彼を怒らせてしまったのではないか。もう会ってくれないのではないか。スマートフォンを手に取り、慌てて彼にメッセージを送る。
「さっきは、ごめんなさい。急だったからびっくりしちゃって。結婚するまでは我慢してもらえませんか?」
しかし、彼からの返信はなく、今朝になって届いたのは別れの言葉だった。
あの時、体を許していたら良かったのか? でも、私を本当に愛しているのなら、結婚まで待ってくれるのでないのか? それとも、結婚なんて考えていなくて、ただの遊びだったのか? いや、本当は結婚を考えていたけど、古風すぎる私が嫌になってしまったのか?
暗い部屋の中で、桃香の自問自答は続く。
壁にかかったカレンダーが、ぼんやりと浮かんで見える。蛍光ペンで書かれた文字が光っている。それは、彼と行くはずだった花火大会が今日だと言う事を知らせている。
遠くから、打ち上げ花火の音が聞こえてくる。その直後、冷たい涙が桃香の頬を伝(つた)った。
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