消えない思い出

 残業続きの一週間を今日で終えた克典(かつのり)は、自らのご褒美に高い肉を買って帰ってきた。「ただいま」と言っても返事がない暗い部屋の照明を点け、早速調理にとりかかる。静かな室内に、肉の焼ける音だけが響いている。

 ふと、一年前に別れた冴子(さえこ)の後ろ姿が思い出される。帰ってくると必ず「お帰り」と言って出迎えた後、笑顔でこう尋ねてきた。

「先にお風呂に入る? それとも食べてからにする?」

 何時頃に帰るかを伝えると、その時間に合わせて準備をしてくれる。克典を第一に考え、どうしたら彼が喜ぶかと思いながら行動していた冴子。台所や風呂場、リビングや寝室など、もう一年も経つと言うのに、彼女の面影が其処彼処(そこかしこ)に残っている。

 ファンだったミュージシャンの歌を口ずさみながら台所に立つ彼女の姿が、彼の脳裏に浮かんでは消える。忘れなければと思いながら、忘れられずに蘇る思い出の数々。静かな部屋が、彼をさらに孤独にする。

 もう三十歳になろうとしているのに。大人の男に成長したつもりなのに。いろいろと身の回りのものを変えてみてもまだ、彼女の存在を消せない自分が腹立たしい。

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 夕食を食べ終えて片づけを済ませた後、風呂に入って疲れた体を癒す。湯船に浸かりながら、シャンプーやボディーソープを眺めてみる。彼女が選んでくれたものを、今もずっと使い続けている。もしかしたら今、彼女も同じように湯船に浸かっているかも知れない。そんな淡い妄想が、彼の瞳を潤ませてしまう。

 風呂を出て、冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気に飲み干す。ふいに「私にも一本ちょうだい」と聞こえた気がして振り返るが、そこには誰もいない。

 アルコールが入って気持ち良くなった体をベッドに投げ出し、大の字になって手足を伸ばす。いたずらっ子のような笑顔で横に寝転がってくる彼女の姿が瞼(まぶた)に浮かぶ。

 昔から持っているシングルベッド。二人では窮屈のはずなのに、あの頃は何にも感じなかった。二人をいつも包み込んでくれたシングルベッド。彼女の温もりを感じさせてくれるシングルベッド。二人で並んで、いろんな話をしたシングルベッド。

 震えながら初めて彼女を抱いた夜。くだらない話をして彼女を笑わせた夜。いくつもの夜を、このベッドと共に過ごしてきた。その思い出が溢れてきて、克典はまた今夜も眠れそうにない。

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