日課の読書を終え、そろそろ眠りに就こうとしていた仁(ひとし)の携帯に着信が入った。時刻は午後十一時半過ぎ。緑(みどり)からの電話だ。こんな時間に掛けてくるなんて、彼女の身に何かあったのかも知れない。事故か? それとも自宅で倒れたのか? 彼女が倒れているイメージが脳裏に浮かぶ。深呼吸で呼吸を整えてから電話に出る仁。
「もしもし……緑さん? どうしたの?」
「仁さん……」
沈んだ彼女の声に、彼の不安が増大してしまう。
「どうしたの? 何かあったの?」
「ううん……何も、ないよ……」
歯切れの悪さが気になる。心配性の彼は、彼女に何か大きな問題が生じたのではないか、もう別れたいなんて言い出すのではないか、そんな否定的な事ばかり考えてしまう。
緑は長女だからか、我慢してしまう癖がある。嫌な事があっても顔に出さず、笑顔を絶やさない。ストレスが溜まってしまい、いつか爆発するのではないか。仁はいつもそんな心配をしていたのだ。
「眠れないの?」
「……うん」
「じゃあ、お話しようか?」
「うん、する」
まるで子どもみたいだなと、彼は思った。「お母さん、眠れないよ」と言って起きてくる子どもの姿が頭に浮かぶ。いつもは弱音を吐かない彼女が自分を頼ってくれた事が、彼にはこの上なく嬉しかった。
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「緑さんは最近、良い事あった?」
「良い事? 特にないかな」
「じゃあ、嫌な事は?」
「嫌な事? 嫌な事は……ある」
「えっ? あるの? どんな事?」
「えーっとね……」
「うん」
「あのね……あなたに会えない事」
「えっ?」
「あなたに会えないから嫌だ」
「……」
仁は黙り込んでしまった。仁は東京で、緑は北海道、そう簡単に会える距離ではない。友人の紹介で二人が出会ったのは一年前の事。歌う事が好きな二人はすぐに意気投合、カラオケ店でのデートを重ね、距離を縮めていった。
しかし、出会ってから三か月後、二人は離れ離れに。仁が異動で、東京に行く事になってしまったのだ。それから会ったのは、盆と正月に帰省した時だけ。普段はLINEでメッセージのやり取りをしている。彼の仕事が忙しいため、電話はなかなか出来なかったりして、彼女の不満は溜まっていた。
「ごめん」
「ううん、謝らないで。私のわがままだから」
電話の向こうの声が涙声になっている。その声が、彼の胸をぐっと鷲掴みにする。
「じゃあさ、今から歌うよ」
「えっ?」
「君が好きな、あの歌を」
そう言うと仁は、電話に向かって歌い始めた。それは、彼が一番得意としていて、緑が好きな歌。暗い部屋の中、アカペラで歌う仁。時折、電話の向こうからすすり泣きが聞こえてくる。仁もまた、涙を滲ませながら歌い続ける。二人の夜は、まだまだ続く。
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