真夏の夜、寝苦しさに耐えかねて、剛(つよし)はベッドから跳ね起きた。汗で濡れた下着を脱ぎ、タオルで体を拭いて着替えた後、コップに水を注いで一気に喉に流し込む。乾いた体に水分が行きわたり、全身の細胞が活性化したような気分になる。
椅子に腰かけて、最強にした扇風機の風を火照った体に当てながら、さっきまで横たわっていたベッドをぼんやりと眺めてみる。
「あー、本当だったら今頃、彼女がここにいるはずなんだけどなあ……」
誰に聞かせるわけでもない独り言が、彼の口から勝手に飛び出す。彼の他に誰もいない部屋で、その言葉が行き場もなく漂っている。
彼は、ぼーっとした頭のまま、机の上の本棚から便箋を取り出した。表紙をめくり、罫線(けいせん)だけが引かれた白い便箋をじっと眺める。今や、手軽にメールを送れる時代。もう何年も手紙を書く事はない。久しぶりに開いた便箋が新鮮に見える。
遠い昔に離れ離れになってしまったあの人。彼にとっては初恋の相手。そして彼女にとっても、彼は初恋の相手であり、二人は相思相愛だった。
中学時代に彼は、何枚も何枚も書き直したラブレターを何日も何日もカバンに忍ばせた末に、思い切って告白した。玉砕覚悟だったのに、意外にも彼女も彼に好意を抱いていたと知り、我が世の春とばかりに毎日浮かれていた。
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二人の交際は清らかで、手を握る事もなかった。彼は彼女と結婚する事を夢見ていたし、彼女もまた彼と同じ気持ちでいた。古風な二人は、お互いを大切な存在として認め合っていた。
「新しいステレオが来るから、聴きに来ない?」
彼がそう言った時、彼女は複雑な笑顔を見せた。何も言わずに見つめるだけの彼女。その様子がおかしいと思いながらも、彼は理由を聞けなかった。
その数日後、彼女は突然引っ越してしまった。噂では夜逃げのようだった。その後の彼女の行方を知る事は出来ず、彼の恋は終わりを告げた。
それ以来彼は、彼女の面影を引きずりながら、新しい恋をする事も出来ず独身を貫いている。彼女はきっともう、結婚しているだろうと思いながらも、彼は彼女を忘れる事が出来ない。
白い便箋に、彼は再びラブレターを書いた。
「どうか、幸せになってください」
一行だけのラブレター。決して出す事のないラブレターを書き終えた彼の瞳から、一滴の涙が滴り落ちた。
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