「家のお風呂が壊れちゃったみたいで、お湯が出ない」
妻からのラインが届く。汗をかいたのにお風呂に入れないのは辛い。夏だから水のシャワーだけでも良いと彼女は言うが、湯船に浸からないと疲れが取れない。子どもたちも部活で汗をかいているだろうから、今夜は温泉に行こうとメッセージを返した。
夕食を早めに済ませ、家族四人で車に乗り込む。休みだと困るので妻に電話してもらうと、営業はしているが通常より早く終わるとの事。連絡しておいて良かった。
目的地に着き、男女二人ずつに分かれて温泉に入る。私と息子が早いだろうから、終わったらロビーで待つと約束した。平日のせいか、思ったほど客はいない。
息子と男湯に入り、まずは背中を交互に洗う。その後、先客がいる湯船に浸かる。熱いお湯が好きな私には良い湯加減だが、高校生の息子には熱いようだ。
部活のサッカーの話、勉強の話、将来の話など、普段出来ない話をじっくりと聞く。そして、母親には話せない話も聞いてみる。小さい頃は何でも話してくれたのに、今はあまり話してくれない。たまにはこうして温泉に入るのも良いなと思った。
息子が熱くなってきたようなので、湯船を出て髪を洗う。最後にシャワーで体全体を流して外に出た。貸し切りのような状態で脱衣所で着替えてから髪を乾かし、ロビーへと向かう。思った通り、彼女たちはまだ出てきていない。
息子はスマートフォンを取り出して時間を潰している。私はテレビに映るドラマを眺(なが)めがら、ぼんやりと考えていた。
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二十代の頃に東京で出会った一人の女性。明るくていつも笑顔を絶やさない。そばにいるだけで、嫌な事も忘れさせてくれるような人だった。
古いアパートの小さな部屋で始まった二人の同棲生活。風呂付きの部屋なんて借りられるはずもなく、楽しみと言えば近くの銭湯に行く事。あの頃は車もなくて、歩いて十五分の道のりを並んで歩く。暑い夏も寒い冬も、手をつないで歩くだけで幸せだった。
あの頃も、彼女より先に上がって待っていた。一秒でも早く会いたくて、時計ばかり見ていたような気がする。ロビーなんてなかったから、外で待つしかない。寒い時は外に出たくなくて、そろそろかなと思って出てみると、彼女の方が早いなんて時もあった。
「今日は遅かったね」
「ごめん、待たせちゃって」
彼女の手を握ると、氷のように冷たくなっている。胸が痛くなって、思わず彼女の体をぎゅっと抱きしめた。そして、予備に持っていたタオルをマフラーのように首に巻くと、「ありがとう」と言って笑った。
二人の同棲は長くは続かず、数年後に故郷に戻った私は、今の妻と結婚した。遠い昔の記憶は、忘れているようで、ふとした瞬間に思い出す。天井を見上げながらぼーっとしていると、後ろから声が聞こえた。
「お待たせしました」
振り返った私の視界に飛び込んできたのは、妻と娘の満足そうな笑顔。この笑顔を大切にしたいと思った。
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