命より大切な人

「先生だって、命より大切な人がいるでしょ?」

 村西誠也(むらにしせいや)にそう尋ねられ、「確かにいます」と私は答えた。私にとって命より大切なのは、娘の和美である。

 もし和美が生き返るなら、私は死んでも良い。夫も心から愛する人に違いないけれど、より強く思うのは夫よりも我が子だ。

「私にはそれが、娘の鈴音(すずね)だったんです」

 村西が三度目の結婚をしたのは、四十を過ぎた時だった。一度目は二十五の時で、相手は中学の同級生。同窓会で久しぶりに出会い、意気投合して酔った勢いで肉体関係になり、出来ちゃった婚である。

 お互い若かった事もあって、夫婦喧嘩が絶えなかった。口うるさい妻に、短気な村西はすぐに手が出てしまい、妻は息子を連れて実家に帰ってしまった。

 二度目は三十二の時で、三十を過ぎて落ち着いてきた事もあり、人生経験が豊富そうな五歳年上の女性と結婚したが、彼女は三人の子持ちだった。

 一度に三人の父親になった村西は、それまで以上に一生懸命に働き、六歳、四歳、二歳の娘たちも村西によく懐(なつ)き、毎日が楽しかった。

 しかし、二度目の妻は男癖が悪く、毎日のように男と交わっていないと満足出来ない体だった。

 ある日の事、出張に行っていた村西が予定より早く帰宅した。すると、知らない若い男が妻と布団の中にいる。妻から、そういう男が一人や二人ではないと告げられた村西は、もう妻として見ることが出来なくなってしまい、二度目の離婚をしたのである。

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 その後、女性を信じられなくなった村西が、最後に出会ったのが新藤(しんどう)まゆみだった。長年勤めた会社を辞め、自分の会社を立ち上げていた村西の元に、保険の勧誘目的でまゆみはやってきた。

 従業員たちは、美人で明るいまゆみが来るのを楽しみにしていた。強引に契約を勧めるわけでもなく、彼らの愚痴や相談に乗っている彼女がどんどん気になる存在になっていった。

 二人は自然な流れで付き合うようになり、結婚して生まれたのが娘の鈴音(すずね)である。年をとってから授かった娘を村西は溺愛し、まさに目に入れても痛くないほどだった。

 鈴音が生まれてから、彼はビデオカメラが手放せなくなった。初めての寝返り、初めての立っち、初めてのあんよ、初めてのおしゃべりなど、その記録を残していく。

 幼稚園、小学校、中学校と、背が高くなるにつれ、妻に似て鈴音は綺麗になっていく。「この子のためなら俺は死んでも良い」村西は心から娘を愛していたのである。

「ところがね、先生。私、本当に死んじゃいましてね」

 私の前に座っているのは、体のない村西だった。つい最近、マンションから転落したという。

「中学に入ってから、いろいろと友人関係で悩み始めた娘を心配していたんです。それであの時、マンションのベランダから飛び降りようとした娘を、慌てて止めようとして自分が落ちてしまったんです」
「そうだったんですか……」

 娘は助かったが、もう彼女の成長を見届けることは出来ない。そんな彼が可哀想で仕方なかった。

「でもね、娘が死ななくて本当に良かったですよ。今日はどうも、話を聞いてくれてありがとうございました」

 突然現れた村西は、話を聞いてもらって満足したのか、すーっと静かに消えていった。私はしばらく、彼が座っていた場所をぼーっと眺めていた。

 慌ただしく葬儀を終えたまゆみと鈴音は、着替えを済ませて足を伸ばし、ゆっくりとしていた。

「あの人、本当に鈴音の事を愛してくれたよね。こんなにたくさんのお金を残してくれて」
「そうだね。でもお母さん、もうちょっとで私の事も突き落としそうになったでしょ。もう、危なかったんだから」
「ははは、ごめんごめん」
「もしかして、私にも保険金、かけているんじゃないの?」
「そりゃ、あんたにもかけているさ。でも、あんたは殺さないよ。次に狙うのは、あんたの旦那になる人だからね。ははははは」

 思いっきり高笑いするまゆみと鈴音。彼女たちは、その話を部屋の隅で村西が聞いている事に気がついていない。

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