「今日はこの辺にいたしましょう」
ピアノの前に座る富美子(ふみこ)の肩に手を添えて、遠藤茂雄(えんどうしげお)はそう告げた。富美子は彼の右手の上に左手を重ねて、無言のまま軽く会釈をする。
彼女は静かに立ち上がり、茂雄の手を引いてベッドへと誘(いざな)う。それはまるでダンスのように優雅で、深紅の絨毯(じゅうたん)の上を滑るように移動していく。窓から差し込む太陽が、室内の高級家具を新品のように輝かせている。
「先生、上着を脱いでください」
富美子は彼の上着を受け取ると、クローゼットのハンガーにかけた。そこに夫の服も並んでいる事に気まずさを感じる茂雄をよそに、彼女の顔色は変わらない。
「ご主人は、お出かけですか?」
彼の問いかけに答えず、目を伏せたままの富美子。ただのピアノ講師が、人妻と同じ部屋に長居するのは気まずい。両親に反発して家を飛び出した苦学生の彼にとって、高収入の仕事を失いたくないというのが本音だった。
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「夫は、若い女に夢中です」
ベッドに座る富美子が力なく呟(つぶや)く。親から譲り受けた大きな屋敷に住み、親が遺した不動産収入で優雅な生活を送る毎日。周囲の誰もが羨(うらや)む彼女にも、人には言えない悩みがあった。
大恋愛の末に結婚した夫は、富美子の親が遺したいくつもの会社を経営しており、仕事が忙しいからと滅多に家に帰らない。しかし実際は、複数いる愛人のマンションを渡り歩いている事を彼女は知っている。
それでも、たまに帰ってきてくれればそれで良いと思っている。子どもたちのために家庭を壊したくないし、何よりも先祖代々続く名家(めいか)の体裁(ていさい)を守る事が彼女の使命なのだ。
「さあ、私たちも、ね?」
富美子は茂雄を座らせると、ネクタイを外してYシャツを脱がせる。これが初めてではない彼は、まるで操り人形のように身を委ねている。自分の思い通りにならない夫に比べて、素直に従ってくれる彼が愛おしい。しかし、それは異性として見ているのではなく、まるでお人形遊びのような感覚だと茂雄は感じている。そこに愛はない。
「可愛い顔、食べちゃいたいくらい」
ベッドに倒された彼は、富美子から熱い口づけを受ける。まだ三十前半の彼女は、夫が満たしてくれない愛情の渇きを二十歳の彼から補おうとしている。一回り上の人妻には、同世代の女の子たちが持ちえない強烈な色気が充満している。むせるような匂い、初めて知った女性の体、彼は富美子を愛していた。
最初は「これも仕事のうち」と思い、お金のためと割り切っていたが、回数を重ねる度に、夫に愛されない彼女が可哀想に思えてきて、いつしかそれが愛情に変わっていった。音楽家の両親から過度に期待されて育った彼もまた、愛情に飢えていたのだ。
「ぼ、僕、奥さんの事が……」
好きですと言う前に、唇で塞がれてしまう。愛を求めない彼女と愛したい彼、交わらない心を抱えたまま、二人の許されない関係は続いていく……。
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