思い出の坂

「暑いね」
「そうだね。今日は一段と暑い」
「茉奈(まな)ちゃん、大丈夫?」
「うん」

 右手は小さな茉奈の手を握り、ハンカチを持ったもう片方の手で額の汗を拭う香奈江(かなえ)。その少し前を歩くのは、夫の省吾(しょうご)。夏の日差しを恨めしく思いながら、三人は坂を上(のぼ)っていた。

「香奈江さんは、この坂を上るのは初めてだよね?」
「そうねえ。前に来た時は車だったもんね。でもたまには、歩いてみるのも良いんじゃない?」

 息を荒くしながらも、香奈江は笑ってみせる。こういうポジティブさを見習いたいと省吾は思った。悲観的でネガティブなところは母からもらったのだろうか。在りし日の母の姿が思い浮かぶ。

「この坂はさ、小さい頃によく、母と一緒に上ったんだ」
「そうなの?」
「うん。あの頃は、どうしてこの坂を上らないといけないのかわからなかった」
「へー、そうなんだ。じゃあ、その理由はもうわかったの?」
「うん……」

 省吾は、話を続けるべきかどうか少し悩んだ。母と自分だけが抱えてきた秘密。その母は、三か月前に亡くなってしまい、母子家庭だった自分の家族は目の前の二人だけ。もう話しても良いよね母さん、と心の中で呟いた後、この坂を上った理由を話し始めた。

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「実は僕は、不貞の子なんだ」
「不貞?」
「うん。母が、あるお金持ちの屋敷の家政婦をしていた時、そこの旦那さんと愛し合うようになって、僕を身ごもってしまった。それを知った奥さんが怒って、母を追い出してしまった。母は身寄りがなかったから、一人で僕を生んで育てたんだ」
「そうだったの。お義母さん、相当苦労されたのね」
「うん……」

 省吾は小さく溜息をつきながら頷いた後、再び前を向いて話し始める。

「年に一回、僕の顔を見せに来なさいと言われていて。その時に、奥さんから一年分のお金をもらう。そのために、この坂を上っていたんだ」
「奥さんからお金もらったのかぁ。奥さんとしても複雑な気持ちだね」
「うん。旦那さんは母を愛していたみたいだしね。母も奥さんも、目を合わそうとしなかった気がする」
「そりゃそうだよね。」
「その屋敷がこの坂の上にあったんだけど、もう誰も住んでいないみたいだよ」

 省吾がそう言い終わる頃には、坂を上りきっていた。数十メートル進むと、彼の母が眠る墓が見える。駆け出す茉奈を追いかける香奈江。省吾はゆっくりと二人の後を追いかける。彼の頭の中で、母と坂を上った思い出が蘇る。

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