日曜の昼下がり。住宅街の一軒家の二階にある京太郎(きょうたろう)の部屋には、彼の他にもう一人いる。彼は中学三年生。夏休みこそ、受験勉強に勤(いそ)しむ時期である。しかし彼には、受験勉強よりも大事な事があった。
「ねえねえ京太郎くん、ちょっと待って!」
「はい?」
「京太郎くんてさ、パソコンに詳しいよね?」
「えっ? ああ、うん、まあ、少しはね……」
下校途中に突然、クラスメイトの女の子に声を掛けられた京太郎の心臓は、早い拍動を繰り返している。内気な彼は自分から人に話しかけるタイプではない。ましてや、女の子と話をするなんて事は滅多にない。さらには、彼がずっと一方的に思いを寄せてきた純子(じゅんこ)が目の前にいるのだから、平常心でいられるはずがない。
顔は、季節外れの林檎(りんご)の実のように赤く染まり、頭は熱っぽく感じる。心の中で彼は、彼女と一緒にいるところを他の同級生に見られていないか、後でからかわれないだろうかと、そればかりを心配している。学校一の美少女である彼女と話をする事は、全男子生徒の悲願なのだから。
「あのさ、初音(はつね)ミクって知ってる?」
「えっ? ああ、うん、もちろん知っているよ。ボーカロイドだよね」
「私ね、初音ミクの曲が大好きで、よく歌ってるんだよ」
「へー、そ、そうなんだ。すごいね」
「それでさ、自分でも曲を作りたくなってね」
「きょ、曲を、作るの?」
「うん。それで、親にソフト、買ってもらったの」
「えっ? 買ってもらったの? 良いなー」
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「えへへ、良いでしょ? 京太郎くんも欲しい?」
「う、うん……でも……」
「実は私、パソコン持ってないの。だから、君のパソコンにインストールして良い?」
「えーーー? ぼ、僕のパソコンに?」
「うん。だって私、持ってないんだから、しょうがないじゃん。ねえ、良いでしょ?」
「えーーー?」
「今度の日曜日、昼から君ん家に行くからね」
「えーーー?」
「勉強も一緒にすれば良いじゃない? お互いに得意な教科を教えるのはどう? 私が英語で君は数学。それなら良いでしょ?」
「う、うん……」
「じゃあ、そういう事で。またね!」
そう言って純子は、足早に行ってしまった。彼女の後姿にしばし見とれた後、我に返って周りを三百六十度見まわす京太郎。そして、誰にも見られていない事を確認すると、安堵の溜息を漏らした。
夏休みに入ってすぐの日曜日、約束通りに純子が訪ねてきた。純子の母はピアノ教室をしており、大学生の長女が中学卒業まで通っていたため、母同士は良く知っている。息子も女の子を連れてくる歳になったかと、喜びと不安が半分半分の母の前を通って、京太郎は彼女を自室に招き入れた。
「ねえ、やっと二人っきりになったね?」
「えっ?」
意味深な笑みを浮かべながらソフトを渡す彼女の真意がわからないまま、京太郎はパソコンを立ち上げる。
「君をみくみくにしちゃうぞ!」
「……」
机に片肘をつき、頬杖のまま見つめてくる純子の顔が近いなと思いながら、胸のドキドキを抑えられない京太郎。パソコンの画面から目を逸(そ)らす事が出来ないまま、彼の頭は高速回転を続けている。
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