「今日は忙しくなるわ」
昨日までの長雨(ながあめ)が嘘のように、朝から太陽が顔を出している。未知子(みちこ)は家中の窓を開けながら、スイッチを入れるかのようにポツリと呟いた。
溜(た)まりに溜まった洗濯物の処理を洗濯機に任せ、家中の掃除を始める。梅雨時期の束の間の晴れ間には、やるべき事が山ほどある。愛しい人を迎えるためにシーツを洗っておきたいが、時間があるかどうか悩ましい限りだ。
掃除をしながら、壁掛けのカレンダーが目に入る。愛しい人が来る日には、必ず印をつけるようにしているが、今月は二回だけ。滅多に会えない人だからこそ、出来る限りの心尽くしで迎えたい。未知子の胸は少女のようにときめいていた。
「三日間だけ時間が取れるんだけど、君の都合はどうかな?」
「あなたの都合に合わせます。大丈夫です。心配しないでください」
愛しい人との時間を優先するために、休みやすい仕事を選んだ。いつでも気軽に立ち寄る事が出来るように、余計な気を遣わせないようにしたい。それが自分の務めだと、彼女は思っている。
愛しい人には家族がいる。家族と住む家がある。家族と暮らす生活がある。それを壊してはいけない。私の方が早く出会っていたら、そう思う事は何度もある。だけど、叶わない事を考えても仕方がない。
「君と一緒に居ると心が安らぐ」
「本当に? 嬉しいお言葉」
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夜の店で出会い、店の客から個人の付き合いに変わるのに、時間はかからなかった。お互いが一目惚れ。運命の出会いだと思えた。妻子がいると知った時はショックだったけれど、関係を重ねていくうちに、そんな事はどうでも良くなった。愛し愛されるだけで良い。それ以上は望まない。
仕事が忙しい夫の行動を、妻はそれほど関心を持たない。溺愛する息子の中学受験で頭がいっぱいなのである。夫は仕事で経済の責任を持ち、妻は子育ての責任を持つ。子どもの教育資金を稼ぐために頑張って仕事をしてほしい。二人は、子育てを協力し合う、同志であり戦友のような関係なのだ。
未知子は、そんな家庭を壊そうとは思わない。幼い頃に父親を亡くし、母一人子一人で育った。自分が寂しい思いをしたからこそ、彼の息子を父親のいない子どもにしたくない。彼の妻と言うよりも、彼の息子を気遣っているのだ。
愛しい人は、未知子のために少しお金を援助してくれるが、彼の負担にはなりたくない。少しでも息子のためにお金を使ってほしい。だからこそ、自分の生活費は自分で稼ぎたい。愛人だと自覚しながらも、愛人なりのプライドを持ちたいと未知子は思っている。
世間の恋人たちのように、一緒に街を歩いたりは出来ない。愛しい人が家に来てくれるのを待つだけの身である。それでも未知子は幸せだった。会いにきてくれるだけで満足なのだ。
彼の好きなご馳走を食べさせたくて夕食の準備をしていると、インターホンが鳴った。包丁を置いて急いで玄関に向かうと、扉の向こうに彼の気配がする。未知子は急いで扉を開け、愛する人を迎え入れた。
「ただいま」
「おかえり」
言葉を続けようとする未知子の口を、彼の唇が塞ぐ。痛いほどに強く抱きしめられ、胸が痛くなるが構わない。彼の太い腕に抱きかかえられ、そのままベッドへと向かう。夕食の準備を気にしながらも、久しぶりの彼との時間を楽しみたい未知子だった。
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