とある土曜の夜。人との接触を避けるように、芳子(よしこ)は路地裏を歩いていた。どこに行く当てがあるわけでもない。ただ歩きたい、ただ彷徨(さまよ)いたい、そんな気持ちのまま、夢遊病者のように歩き続けていると、とある店に吸い寄せられるようにして入っていった。
「いらっしゃいませ」
中年男性の声が店内に響く。芳子は彼に目もくれずにふらふらと歩き、窓際の奥のテーブル席に座る。店のマスターは水を注いだコップを届け、「ご注文が決まりましたらお呼びくださいませ」と言って立ち去った。
それでも芳子は何の反応も見せず、窓の外の通行人を眺めている。生気のない顔はどこか青ざめていて、尋常ではない様子を物語っている。
「どうしたの?」
隣のテーブルにいた田代が声をかける。短髪で色黒、大きな団栗眼(どんぐりまなこ)でニコニコと笑いかけている。突然の若い男の登場に戸惑いながらも、芳子は重い口を開く。
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「彼氏に振られました……」
大きな目を更に大きく開いたまま、田代の動きは固まってしまった。今まで片思いばかりで、恋愛経験がない彼には、彼女にかけるべき言葉が思いつかない。
しばらく見つめ合っていると、彼女の心の奥底に閉じ込めていた感情が込み上げてきているのがわかった。それは大きな涙の塊となって、彼女の切れ長の瞳から音を立てるかのようにボロンと零れ落ちた。
思わず声が出そうになるのを堪(こら)えながら、彼は遠慮がちにポケットから取り出したハンカチを差し出す。普段あまりハンカチを使わない彼は、いつもポケットに仕舞い込んだままで、いつ洗濯したものなのかわからない。そんなものを渡して良いのかと悩んだが、彼女のために何かをせずにはいられなかった。
それでも、芳子が礼を言って受け取り、ハンカチを使ってくれたのが嬉しくて、田代はマスターを呼んでこう言った。
「マスター、この人のために、涙を忘れる事が出来るカクテルを作ってやってよ」
初老のマスターは常連の田代の言葉に黙って頷き、素早くカクテルを作って芳子の前に差し出した。芳子は二人に礼を言ってグラスを持ち、こくりと口に流し込んだ。彼女の口の中で、甘酸っぱい感覚が広がる。
「美味しい……」
芳子の口元から笑みが零れる。それを見て、田代の不安は消し飛んだ。
「そうかい? 美味しいかい? 良かった」
そう言って田代は破顔(はがん)する。目の前の彼女とは数分前に会ったばかり。これで彼女の痛手が癒(い)えるとは思えない。それでも、何故か心が嬉しくなる田代だった。
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