サッカー日本代表・森保一監督と西野朗監督

サッカー日本代表 森保一監督、アジアカップ準優勝おめでとうございます。

日本代表新監督・森保一、地味だがアツい「昭和の男」の肖像

2018.08.18 叩き上げならではの闘志が燃えている 二宮 清純

サッカーファンを除けば、どれだけの人がこの新監督の名前を知っているだろうか。174cmの小柄な体躯に、穏やかな顔つき。決して目立ちはしないが、その胸には叩き上げならではの闘志が燃えている。

ポスト西野がついに決定

期待値が低かったぶん、喜びも大きかった。FIFAランキングはあてにならないとはいえ、61位の国が先のロシアW杯で決勝トーナメントにコマを進めたのだから、一定程度の評価は与えるべきだろう。

ベスト16の中で、日本より下位の国はホストカントリーのロシア(70位)だけだった。

わずか2ヵ月半の準備期間でチームをベスト16に導いた西野朗の手腕は称えられてしかるべきだ。

問題はポスト西野だ。外国人にすべきか、日本人にすべきか。私見を述べれば、その命題の立て方自体が間違っている。

有能な指導者であれば、日本人でも外国人でも構わない。問われるのは継続性である。

というのも、これまでの監督選びは〝ちゃぶ台返し〟の連続だったからだ。特に外国人監督に、その傾向は強かった。

たとえばジーコは’02年大会で、日本を初のベスト16に導いたフィリップ・トルシエの手法をなぞらなかった。そのジーコが「自由」をキーワードに推進したサッカーは、今度はイビチャ・オシムによって否定された。

6人目の外国人監督アルベルト・ザッケローニは「ポゼッション」に重きを置いていた。しかし、後にヴァイッド・ハリルホジッチによって覆され、リアクションを主体にした堅守速攻型のチームに改められた。

このように監督が代わるたびに、日本サッカーの方向性は、猫の目のようにクルクルと変わった。

ロシアでの戦いぶりを踏まえ、残すものは残す、改めるものは改める。その作業を遂行する上で適任者は誰か。浮上してきたのが代表コーチの森保一(五輪代表監督)だ。

指導者としての実績は、日本人の中では、頭ひとつ抜けている。出身母体であるサンフレッチェ広島を3度のリーグ優勝に導いた。

森保の前任のミハイロ・ペトロビッチ(北海道コンサドーレ札幌監督)率いる広島は超攻撃的なサッカーを展開していた。

「もし自分がこのチームを率いるようになった場合、どうすべきか……」

アルビレックス新潟でコーチをしていた森保は、常にそのことを頭の片隅に置いていたという。

「相手ボールホルダーに対するファースト・ディフェンダー。ここが大事。要は相手ボールに対して、誰が最初に仕掛けるか。11人のうちのひとり目がはっきりしてこないと、あとの10人のポジションが決まらない」

当時の森保の発言だ。

この狙いは的中した。ファースト・ディフェンダーの役割を明確にし、それを徹底させたことでチーム全体の守備に対する意識が高まった。失点の減少が’12年の優勝につながったのである。

「このチームの一番の良さは攻撃力。それをキープしつつ、自分が考えている守備のエッセンスを落とし込んでいかなければならない。

僕が目指しているサッカーはシンプルなんです。早い話が効率よく守るということ。

守備のアプローチがうまくいけば、ボールを奪ってからの守備から攻撃への移行がスムーズにいく。そうなれば無駄な体力ロスもなくなるから後半にスタミナが残るんです」

森保は3-4-3の陣形を採用した。ボールを奪ってからの攻めは速く、両ウィングバックはまるで鳥が翼を広げるように両サイドにせり出した。私たちが目にしたものは戦国時代から甦った「鶴翼の陣」だった。

森保に初めてインタビューした時のことはよく覚えている。撮影用にリフティングを依頼すると、カメラマンがシャッターを切る前にボールは床ではねた。

「サッカースクールに行くと、ミスをしてよく子供たちに笑われるんです」

サッカーどころ長崎の出身ながら、高校は当時、全盛を誇った国見ではなく、長崎日大。名将・小嶺忠敏から声がかかることはなかった。

僕も一応、受験票はもらったんですが、誘われもしなかったし、自信もなかったから直前になって受験を取り止めました。何しろ僕くらいの実力の選手は島原地区には、ごろごろいましたから」

そして、こう続けた。

「結局、高校時代、全国大会の経験は国体の県代表メンバーに選ばれた一度だけ。でも、国見の選手が主体だったため、試合には一度も出られなかった。グラウンドの隅で、国見以外から選ばれたもうひとりの補欠とボールを蹴って遊んでいました」

名将・オフトとの出会い

高校時代、森保は運命的な出会いを果たす。後の日本代表監督ハンス・オフトに、そのセンスを見初められたのだ。

長崎日大の監督だった下田規貴から、かつてこんな話を聞いた。

「オフトさんが指導者講習会で諫早にやってきた。私が懇意にしてもらっていた今西和男さん(当時マツダ監督)がオフトさんを連れて学校にやってきたんです。当時、オフトさんはマツダのコーチをしていました。

で、練習を見ていて、こう言ったんです。〝あの子はボールを持った時の姿勢がいい。顔が上がっていて、きちんとまわりの状況を見ている。何という子ですか?〟。それが森保だったんです」

オフトといえば、日本サッカーの近代化に貢献した人物として知られる。’92年、外国人として初めて日本代表監督に就任した。

なぜ、オランダ人のオフトだったのか。当時、監督選びの責任者だった川淵三郎はこう語ったものだ。

「カズ(三浦知良)やラモス(瑠偉)のようなプロが代表に入った段階で、もう代表監督もアマチュアというわけにはいかなくなった。プロ契約している選手が〝僕たちは生活がかかっている〟と言えばアマ監督は何も言い返せないでしょう」

そのオフトの〝秘蔵っ子〟が森保だった。

さて高校を卒業した森保は下田の伝手でJSL1部のマツダのテストを受ける。5~6人いた高校生の中で、実技を試されたのは森保だけだった。

大学に進まなかったのは、森保なりの危機意識の表れだった。

「なぜJSLのチームのテストを受けたかというと、国見の選手に負けたくなかったからです。国見の選手は全国大会で活躍しているから、ほとんどがサッカーの強い大学にスカウトされていく。そして4年後、JSLのチームに入団する。

彼らに勝つには、最初からJSLのチームに入り、4年間みっちりと自分を鍛えるしかない。そう思ったんです」

どうにかマツダに滑り込むことはできたものの、配属先は地域リーグに所属する社内チーム。プロ野球で言えば、「育成ドラフト」のようなものだ。

オフトと2度目の出会いを果たしたのもこの頃だ。マツダの監督を務めていたオフトは、しばしば地域リーグにも足を運んだ。そこで再び森保のプレーを目にすることになる。

当時のコーチ河内勝幸は語っていた。

「確か広島大附属高のグラウンドだったと思いますが、森保のプレーを見て〝彼はプレーのスタイルがいい。しつこいし、きっちり自分の仕事をしている〟と誉めていた」

’91年、晴れてマツダとプロ契約。’92年4月には念願の日本代表(オフトジャパン)に選ばれた。

森保の〝無名伝説〟が生まれたのは、浜松での代表合宿だった。マツダのチームメイト以外、誰も彼のことを知らなかった。

「モリ・ヤスカズ」「モリホ・ハジメ」。ひどいのになると「モリ・ポイチ」。ある選手からは、「ところでキミ、ポジションどこだっけ?」と真顔で聞かれてしまった。

代表コーチ(当時)清雲栄純の回想。

「僕はオフトさんから聞いていたんけど、ほとんどの選手が彼のことを知らなかったはず。オフトさんは〝ゲームの読める選手〟と言ってましたよ。

森保を見ていて感心したのは学ぶ姿勢の良さ。当時の代表はカズ、ラモス、柱谷哲二らを筆頭に個性的な選手が多かった。森保はオン・ザ・ピッチであれ、オフ・ザ・ピッチであれ、彼らからいいところを貪欲に吸収していました。

それと無名ではあったが、ポツンとひとりでいるところを見たことがない。誰とでも臆せずに話していた。

性格もただ素直なだけじゃなく、疑問があればオフトさんに対しても厳しい質問をぶつけていた。誰かに引きずられることもなく、若い頃から自分の考えをしっかり持って行動していましたね」

ポジションはボランチ。中盤の底を拠点にしてピンチの芽を摘み取るのが任務だった。

試合を予測する力

代表デビューは’92年5月、国立競技場で行われたキリンカップのアルゼンチン戦。クラウディオ・カニージャ、ガブリエル・バティストゥータら世界的なタレントを擁する同国は、日本にとっては仰ぎ見る存在だった。

結果的に0対1で敗れはしたものの、最も株を上げたのが森保だった。

「日本選手の中で、誰が一番目立ったか?」

日本人記者のお決まりの質問に、アルフィオ・バシーレ監督は「モリヤス」と口にしたのだ。

とどめはカニージャの次の一言だった。

「いやになるほど17番がいつも側にいるんだ。スペースが空いたから入り込もうとすると、いつの間にかカバーに入っている。僕にとって一番嫌な選手だった」

日本サッカー界が〝掘り出し物〟くらいにしか思っていなかった才能を、世界が先に認めてしまったのである。

その直後、森保から聞いた言葉が忘れられない。

「ときどきボールを追いかけたくなるときがあります。でも、そういう場合、僕は〝試合にのめり込むな!〟と自分に言い聞かせます。

僕はパスコースを消し、相手の攻撃の選択肢を減らすことで後方の選手が守備をしやすくするのが仕事。それが組織的なディフェンスの基本ですから……」

オフトに森保について聞くと「エスティメーション(estimation)」という言葉が返ってきた。

試合を見積もる力、予測する力、とでも言えばいいのか。それが森保には備わっていたのである。

この原稿を書くにあたり、オフトジャパンの司令塔だったラモスからも話を聞いた。

「モリヤス?アイツ地味だけどハンパないよ。運動量ある。頭いい。一対一に強い。相手のいいところ消す。なんでもできるんだ。そう汚れ役ね。仲間のため、チームのために戦えるヤツ。僕の後ろにいて、随分助けてもらったよ」

現V・ファーレン長崎監督の高木琢也は広島でもオフトジャパンでもチームメイトだった。ポストプレーが得意な屈強なFWとして鳴らした。

「ロシアW杯で優勝したフランスにエンゴロ・カンテという選手がいたでしょう。守備の職人。とにかく相手の攻撃の芽を摘むのがうまかった。

森保も最初は守備の選手だったんだけど、そこからどんどん成長していき、トップの僕にワンタッチでパスを出してくるようになった。

彼は研究心と向上心の塊。人の話によく耳を傾け、それを自分のモノにしていましたね」

オフ・ザ・ピッチのこんな逸話も。披露するのはマツダ・広島時代のチームメイト吉田安孝だ。

「オフの時、4~5人で酒を飲みながらサッカー談義になった。皆、熱くなり過ぎて口論になった。

その時です。一番年下の森保が泣きながら、僕たちにこう言ったんです。〝皆、チームメイトじゃないですか。ケンカはやめてください。ひとつになりましょう〟って。彼はそういう男なんです」

その話を聞いて、少年時代に見た竜雷太主演の青春ドラマを思い出した。サッカー部を舞台に繰り広げられたドラマの中に、同じようなシーンがあったからだ。

その意味で彼は「昭和の男」でもある。誰よりも熱く、誰よりも冷静。だから指導者としても成功を収めることができたのだろう。

Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎は、そんな森保を評して「青年将校のような趣がある」と語っていた。

W杯直後に届いたメール

Jリーグがスタートして、ちょうど四半世紀。記念すべき年に、初のJリーガー出身の日本人代表監督が誕生するのも、何かの縁だろう。

「西野ジャパンは大和魂のこもったチームでした」

ロシアでの戦いを振り返って、森保からはそんな返信が届いた。西野ジャパンをベースに、さらなる高みを目指すことがミッションとなる。

だが問題がないわけではない。A代表とU-21代表の兼任は’00年シドニー五輪、’02年日韓W杯を戦ったフィリップ・トルシエ以来となる。戦術を共有できる利点はあるが、激務に耐えられるのか。

オフトジャパンで同僚だった大野俊三は、こう期待する。

「彼の良さはブレないところ。ボランチというポジション柄、相手の動きに対応するには何をしなければならないか。それをわかっている。

また、それを選手たちに伝える能力にも長けている。選手たちにとっては良き指導者、良き兄貴。そんな監督像が思い浮かびます」

サッカーの世界で森保のことを悪く言う人間に、これまで出会ったことがない。物腰が柔らかく、誰に対しても公平に接する。人の意見にはきちんと耳を傾け、それを咀嚼してから、適切な答えを返してくる。

そんな森保が一度だけ「違います」と語気を強めたことがある。ある選手のことを「天才」と私が評したら、言下に否定した。

「二宮さん、この世界には、〝天才もどき〟が多い。今のうちからその気にさせないでください」

叩き上げの矜持とともに若い選手への深い愛情を感じた。それ以来、私は「天才」という言葉を封印した。またサッカーについて、彼から学べるのがうれしい。

「週刊現代」2018年8月11日号より

[出典:日本代表新監督・森保一、地味だがアツい「昭和の男」の肖像(二宮 清純)現代ビジネス(講談社 > https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56894 ]
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そんな森保監督と、前任の西野監督の四柱推命です

西野朗監督(1955年4月7日生まれ)

年 乙未 正官  衰
月 庚辰 食神 冠帯
日 戊戌     墓

大運 甲戌 偏官  墓
流年 己亥 敗財  絶

比肩星 土 ●●●●
食傷星 金 ●△
財星  水 
官星  木 ●
印星  火 

森保一監督(1968年8月23日生まれ)

年 戊申 正財  胎
月 庚申 正官  胎
日 乙丑     衰

大運 庚午 正官 長生
流年 己亥 偏財  死

比肩星 木 ●
食傷星 火 
財星  土 ●●
官星  金 ●●●△
印星  水 

西野監督と森保監督の命式

西野監督は戊戌日生まれで「魁ごう日」という特殊な生まれです。
非常に強い生まれの「魁ごう日」は、吉凶が激しくコントロールが難しいと言われます。

亀梨和也さん、北川景子さん、コウカズヤさん、松井玲奈さん、清原果耶さん、ヒロミさんも戊戌日生まれです。
女優・深田恭子さんとKAT-TUN・亀梨和也さんの相性
女優・北川景子さんと歌手・DAIGOさんの相性
元SPEED・上原多香子さんと劇作家で演出家のコウカズヤさんの相性
元SKE48で女優・松井玲奈さん
女優・清原果耶さん
タレント・ヒロミさんと松本伊代さん夫婦の相性

西野監督は比肩が強く、身旺で「魁ごう日」ということもあり、2018年ロシアワールドカップでは決勝トーナメント進出を果たしました。
「魁ごう日」は、「庚辰・庚戌・壬辰・戊戌」の4つで、「庚辰・庚戌」は官星を、「壬辰・戊戌」は財星を嫌うとされます。
「魁ごう日」は、「印星」があることで開運すると言われています。

「魁ごう日」生まれの有名作家は多いです。
【庚戌】……川端康成・太宰治
【壬辰】……芥川龍之介
【戊戌】……三島由紀夫

生時が不明ですが、もしかしたら印星があるのかも知れません。

魁ごう日生まれだけでも強いのに、さらに比肩に星が4つもあります。
比肩が強いほど孤独に強いわけで、ある意味非情な決断を強いられる代表監督に適しているでしょう。
また、地支に冠帯と墓が並んで直感・霊感が強く、感覚肌だと言えます。

日支:戌の墓庫にはたくさんの宝物があり、月支の辰と冲して墓庫が開いた状態です。
さらに大運と流年が墓だった2018年は、墓庫が開いて大きな収穫がされたのでしょう。

森保監督は乙丑日生まれで、乙は陰の木、丑は冬(1月)の土(陰)です。
「雪の積もった花壇に咲く花」といった感じです。

体操の宮川紗江選手、花田景子さん、有村架純さん、土屋太鳳さん、高山一実さんも乙丑日生まれです。
体操・宮川紗江選手
大相撲・貴乃花親方と元フジテレビアナウンサー花田景子さんの相性
女優・有村架純さん
女優・土屋太鳳さんと俳優・山崎賢人さんの相性
歌手・乃木坂46の高山一実さん

西野監督とは対照的に、森保監督は比肩が弱く、しかも「乙女」の乙日生まれです。
地支を見ても胎や衰など弱い星が並んでいます。

比肩の弱い人は、自尊心が低い分、謙虚で奢らず、勉強熱心です。
保守的なところが、采配にも通じると思います。

財星と官星に星が集まっているのが、森保監督の特徴です。
印星と食傷星に星が集まっている人は、目に見えないものを重視し、人間関係が得意ではありません。
財星と官星に星が集まっている人は、目に見えるものを重視し、人間関係が得意です。

特に官星が強いので、自分よりも組織やチームを優先します。
また、こだわりの強さがあるので、それが「ブレない」につながるのでしょう。

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