三月は別れの季節。部活で一緒に頑張った三年生との別れを悲しむ友人たち。その中で楓(かえで)だけは、違う人を見つめていた。彼女の視線の先にいるのは、担任の丸山優一。
「みんな、高校に行っても、勉強も部活も頑張れよ」
「先生も、新しい学校で頑張ってください」
三月は、教員の移動の季節でもある。四月から、丸山先生は新しい学校に異動となる。
「先生、見てください」
「お、新しいの描いたの? 見せて見せて」
楓の夢は漫画家になる事。勉強の合間に描いた漫画を、先生に見てもらうのが楽しみだった。美術の教師でもある丸山先生は、趣味で漫画を描いている。生徒の家庭に配るプリントにイラストを描いて、親たちにも好評だった。
「この話、深いな。中学生でこんなの描けるなんてすごいよ」
「本当ですか? ありがとうございます」
楓にとっては初恋だった。自分を誉めてくれる存在であり、自分を認めてくれる存在。楓が所属する陸上部の顧問でもある丸山先生は、勉強でもスポーツでも、出来る子よりも出来ない子の事を気にかけてくれた。
どちらかと言うと楓は、運動は苦手なタイプ。この学校では、全員が何かしらの部活動に入らないといけない。球技はまるでだめな彼女は、消去法で陸上部を選んだ。
「いいか、大切なのは結果じゃなくて過程なんだ。もともと運動神経の良い人は、たいした練習をしなくても良い結果が出るだろう。逆に、運動神経の悪い人は、どんなに努力しても望んだ結果は得られないかも知れない。でも先生は、結果が出なくても努力できる人、頑張れる人が好きなんだ。佐藤は誰よりも頑張っている。だから応援したいんだ」
一年の時、初めて出た大会は本当に酷(ひど)かった。恥ずかしさと悔しさで泣いていた楓を、先生は優しく励ましてくれた。その時の先生の笑顔が眩しくて、楓は恋に落ちたのである。
その後、先生が漫画家を目指していた事を知り、楓の頭の中は先生でいっぱいになっていった。自分が描いた漫画を見てもらい、アドバイスしてもらうという口実で、先生と話す時間を作っていく。
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最初は、自分の作品を読んでもらいたいという動機だった。次は、誉めてもらう事が嬉しくて、また誉めてもらいたいという欲求に。そして段々、自分だけが先生と特別な時間を共有しているという高揚感に変わっていく。先生と漫画で繋がる事で、とても強い絆を感じ、先生と生徒の関係を超えて同志のような感覚へ。
そして漫画の内容も、メッセージ性の強いものへと変わっていった。先生を恋い慕う女子生徒を登場させ、自分の気持ちを暗に伝えようとした。
「おお、これは、大人の漫画だねえ。佐藤も大人になったなあ」
その主人公は私です。先生が好きなんです。
そんな事は楓に言えるはずもなく、ただ恥ずかしそうに頭をかくだけ。結局、先生と過ごした二年間で、小さな胸に秘めた思いは伝えられずじまい。
「もし街で出会ったら、気軽に声をかけてね」
そう言って、先生は行ってしまった。
三年生の夏休み。友人の家に遊びに行った帰り、一人で歩いていた楓の目に飛び込んできたのは、懐かしい先生の姿だった。嬉しさと同時に、別の感情も込み上げてきた。
先生の隣には、髪の長い綺麗な女性。二人は腕を組んで、楽しそうに歩いている。楓は思わず近くのコンビニに入った。道路を挟んで反対側の歩道を歩く二人を、コンビニの中から見つめる楓。胸の奥から沸き上がった悲しみが涙と共に溢れそうで、たまらずトイレに駆け込む。楓の淡い初恋は終わった。
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