最後の笑顔

「ほら見て、埃(ほこり)が舞ってる」
「えっ?」

 そう言って、サッシを指差しながら笑う麻衣子(まいこ)。彼女の声に振り向いた公平(こうへい)も、「そうだね」と言って思わずにやける。春の強い風が、彼らの心を少しでも和ませようとしているようだ。

「ほらほら、ここだけ青いよ」
「えっ? ああ、本当だ」

 彼女が指を差しているのは、箪笥(たんす)が置かれていた畳。荷物がなくなって広々とした室内に、人が確かに生活していた証拠が残されている。それを感慨深げに見つめる公平。

 二人がここに住み始めたのは五年前。最初は何もなかった荷物が、少しずつ増えていった。これからはお互い東京を離れて、それぞれの故郷に帰っていく。そのため、大きな荷物は既に処分してあり、最後の掃除をしているのである。

 二人で使った物が無くなる度に、彼女との絆が薄くなっていく気がする。その度に、公平の心の隙間が広がっていく。動かしていた手を止めてぼーっとしていると、ふと一枚のカードが目に入った。思わず手に取ってみる。

「あっ、それ、ずっと探していたやつ! そんな所に隠れていたんだね」
「えっ? ああ、これ? はい」

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 公平はそのカードを彼女に手渡した。折れ曲がってしまったトランプのカード。出会った頃は傷一つなかった彼らの関係も、いつの間にか修復不可能になってしまった。そんな二人を象徴するかのようなハートのエースを見ながら、彼は過ぎ去った日々を思い出していた。

 どこへ行くにも一緒だった二人。料理を作る時も一緒、お風呂に入る時も一緒、寝る時も同じ布団で手を繋いで寝た。それが、段々と行き違いが生じるようになり、二人で一緒の時間が少しずつなくなっていった。

「あー! 公平さん、顔見て、顔!」
「えっ? 何、どうしたの?」

 彼女に言われて、公平は洗面所に向かった。頬と鼻が黒く汚れている。何年も掃除していなかった場所を触ったからだ。人の心も、年月の経過と共に掃除が必要になる。自分たちはそれをしてこなかった。そう教えられたような気がした。

 彼女の笑顔を久しぶりに見た気がする。公平は、最後の共同作業を出来るだけ明るくしようとしている、彼女の気遣いが嬉しかった。

 全ての掃除を終えて、いよいよ二人は最後の時間を迎えようとしていた。離婚届は既に提出してある。ここで別れれば、二人はもう会う事はないだろう。

「じゃあ、元気でね。体に気をつけて」
「うん、君も体に気をつけて、元気で」

 軽くお辞儀をして手を振ってから、振り返る彼女。最後に見せた彼女の笑顔は、清々しいほどすっきりとしている一方で、公平はぎこちない笑顔を作るのが精一杯だった。

 彼女の背中をじっと見つめる公平。どこかで振り返るかも知れないと期待したが、彼女は背中を向けたまま遠ざかっていく。しばらくしてようやく諦めた公平は、目を潤ませたまま振り返った。

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