言えなかった言葉

 若者で賑わう街に不釣り合いな古いアパート。築年数は相当経過しており、鉄の階段には赤錆(あかさび)が目立っている。階段を上がり、貧しいながらも子どもたちの笑い声が聞こえる部屋を通り過ぎて、二階奥の突き当りの部屋。その部屋からは、どこか陰鬱(いんうつ)な雰囲気が漂ってくる。

 テーブルを挟んで向かい合う男女。お互い下を向いている。二人の間には一枚の紙がある。すでに紗那絵(さなえ)は記入を済ませ、印鑑も押している。後は義昭(よしあき)が記入すれば、二人の婚姻関係は終わる。ただ一枚の紙が、二人の人生を根底から変えてしまう。

「もう一度、じっくり話し合う事は出来ないかな?」
「今までにもう、何度も話し合ったじゃない」

 彼女のその言葉が、義昭にはひどく冷たく感じられた。それはまるで氷のように、彼の心臓を深く抉(えぐ)る。そのせいなのか、夏なのに彼の体感温度はかなり低い。背中が冷たく、手足の先も氷のように冷たい。

 怖くて顔を上げられず、彼女の目を見られないままペンを持つが、緊張で指の震えが止まらない。ペンを持つ右手に力を込めて震えないようにしながら、彼は少しずつ書いていく。

 二人が結婚したのは三年前。学生時代に出会い熱烈な大恋愛の末に、彼女の両親の反対を押し切って結婚した。彼女の実家は裕福で地元の名士。彼のような貧乏な家庭で育った男に、大事な娘を任せられないと反対したが、最終的には娘の意思を尊重した形になった。

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 就職はしたが給料が安い彼のために、彼女の両親は金銭的な援助をしてきた。娘に苦労はさせたくないという親心である。しかし、生来の人の良さから友人に騙され、多額の借金を背負うようになった彼の生活は一向に良くなる気配はなかった。

 そして遂に親の説得に応じた彼女は、彼と離婚する事を決めた。生活のために自分も懸命に働いた彼女だが、このままでは子どもを産んで育てる事も出来ないと判断したのだ。

 彼が書き終えた離婚届をカバンにしまうと、彼女は無言のまま立ち上がった。そして彼に深々と頭を下げ、玄関へと向かう。彼女の後姿を見つめながら、義昭は止める事が出来ない。

「行かないで。君がいないと僕は、生きていけないんだ」

 そんな言葉が喉まで出掛かっているが、どうしても言う事が出来ない。彼女は靴を履くと、玄関のドアの前で振り返ってこう言った。

「今まで、ありがとうございました」

 彼女の潤んだ瞳から、堪えきれず零れた一滴(ひとしずく)の涙。その涙の意味を計り知れない彼は、黙って頭を下げるしかなかった。ガチャリと静かな音を立ててドアは開き、また再び音を立てて閉じる。ただその音だけが無言の室内に響いては、静かに消えた。

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